開かれた手で

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

新約聖書 ルカによる福音書 11章1節

藤井真によるメッセージ

「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」弟子のひとりが主イエスに尋ねます。弟子が尋ねたことは、どう祈るのかとか、何を祈るのかということではありませんでした。祈りとは何かという本質的な問いを投げかけるのです。

けれども、主に対する弟子の質問を聞きながら次のように思われる方もおられるのではないでしょうか。お祈りは別に誰かに教えてもらわなくてもできるではないですか。実際、神さまを信じていなかったときにも、誰に教わるでもなくお祈りをしていましたと。でも、祈ることが喜びになるためには、主イエスから教えていただかなければ分からないのだということに改めて気付かされるのです。では、祈ることが喜びとなるとはどういうことでしょうか。

以前、教会の祈祷会で、ヘンリー・ナウエンという人が書いた『両手を開いて』という本を読んでいました。その人は初めに「お祈りすることは難しい」と言うのです。なぜか言うと、私たちはいつも両手をギューと握りしめて生きているからだと言うのです。どういうことでしょうか。私たちは皆、何かを強く握りしめて生きているのです。その握りしめた手の中にあるのは何でしょうか。それは自分にとって大事なものです。手放したくないものです。だからギューと握りしめるのです。そして、ギューと握りしめた手の中にあるものこそが、自分の本当の姿だと信じているのです。例えば、自分の才能や地位や名誉といった、他の人からすれば立派で、魅力的なものです。自分の力で勝ち取ったもの、やっとのことで手にした幸せです。それが奪われるということは耐え難いことです。手の中に握りしめているものが無くなると自分の存在さえも消えてしまうと思い込んでしまうのです。

また手の中に握りしめているものは、周りから「素敵ですね。魅力的ですね」と言われるようなものばかりではありません。もっと暗いもの、見られたくないものさえも握りしめているのです。あの人が愛することができないと一端思い始めたら、ずっとその思いを握りしめる。憎しみや妬み、不安や絶望、本当はそういったものから早く解放されたいと思っているのに、まるでそれらを大事にしているかのように手の中で握りしめているのです。私たちは手の中にある「もの」が、自分の本当の姿だと錯覚しているのです。でもそれは冷静になって考えてみればおかしなことです。手の中にあるものが本当の自分ではありません。でも自分で自分のことがよく分からなくなってしまうのです。分からないから、ますます手の中にあるものを離すまいと拳をギュッーと強く握りしめてしまうのではないでしょうか。

しかし、本当の自分というのは、手の中にある「もの」ではなくて、「手」そのものが、「体」そのものが、「心」そのものが、そして「わたしという存在」そのものが、自分の姿だと思うのです。そして、そのようなあなたの存在そのものを神さまは、はじめから愛してくださっているのだ、と聖書は語ります。あなたの手の中にあるものではなく、あなたそのものを神さまは愛しておられる。たとえ、真っ暗な心をその手の中に握りしめていても、そういう私たちをも愛そうとしてくださるのです。それは神さまにとってあなたが尊い存在だからです。だから、神さまはご自分の独り子イエス・キリストを私たちに与えてくださったのです。神さまは「わたしは神さまだから、あなたたち人間のことは知らない」と言って、ご自分の手を強く握りしめたまま天におられたのではありませんでした。まさにご自分の手を開いて、御子イエスを私たちと同じ人間として、この世界に遣わしてくださったのです。

それは強く握りしめている手の中にいるのが本当のあなたなのではなく、神さまから愛され、また赦されているあなたこそが、本当のあなたの姿なのだという神さまのメッセージに気付いてほしいからです。そのために、主イエスは十字架でご自分のいのちさえも献(ささ)げてくださったのです。ここに、私たち人間が神さまの前に立つことができる道が開かれたのです。神さまの前で、自分が本当は誰であるのかというのが分かるようになったのです。自分の尊さというのは、自分の手の中にあるものではなく、わたしの手そのものなのだ。わたしの存在そのものなのだということが分かるようになったのです。イエス・キリストの愛によって、自分は誰であるのかが分かる時に、祈りへの道が開かれ、そこに喜びも生まれるのです。

ヨハネの手紙一第3章1節には次のような言葉があります。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」

あなたは「神さまの子ども」にしていただいているその事実を考えなさい、見なさいと言うのです。私たちはもう自分で自分のことをしっかり握りしめながら、自分を見て、不安になったり、怯えたりしながら生きる生き方から解き放たれます。両手を開いた、そのあなたの手を神さまがしっかりとつかんでいてくださいます。自分の人生も、自分のいのちも神さまが握りしめてくださいます。この神さまの大きな愛の御手の中にある自分を大事にしたらよいのです。

主イエスは「祈りを教えてください」という弟子の質問に答えて、「父よ」という言葉からはじまる祈り、「主の祈り」を教えてくださいました。神さまのことを「父よ」と呼ぶこと、ここに私たちの生きる喜びも祈る喜びもあるとおっしゃってくださったのです。私は随分長い間「父よ」と呼ぶことが、なぜ喜びになるのかよく分からない時期がありました。弟子たちもよく分からないままに、「父よ」と祈っていたのではないでしょうか。やがて、弟子たちは神さまを「父よ」と呼ぶ喜びを知ったのです。自分が神さまに愛されている子どもであることを知ったからです。「父よ」と呼んで祈る度に、神さまに愛されている自分を知ることができる。こんなに嬉しいことは他にないのです。

関連する番組