青春の日々にこそ

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聖書の言葉

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。

旧約聖書 コヘレトの言葉 12章1節

藤井真によるメッセージ

今日から8月になりました。暑さも厳しくなり、外に出るのも嫌になるほどです。そんな中ではありますが、子どもたちは元気に外で駆け回っています。学生など、若い方たちにとりましてはスポーツの季節、真っ只中です。夏にはインターハイがあり、甲子園があります。今年はオリンピックが東京で行われていますね。若い人たちのエネルギーにいつも圧倒されます。

ところで、「若い」ということはどういうことでしょうか。年齢で区切ることができるかもしれませんが、それだけでなく、若い方たちが向き合っている課題をいくつかをあげながら、考えることもできるでしょう。若い時というのは、社会に出るための準備期間。生き甲斐を見つけるための時間。良い友達をつくる時間。他にも色々あると思います。体力的なことにおいても、歳を重ねた者よりは強いものを持っています。つまり、健康であるということです。人生経験という面では、未熟かもしれませんが、その分、何事にも恐れずにチャレンジすることができるでしょう。失敗しても、何度でもやり直しが効く。それが若いということの特徴かもしれません。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」伝道者コヘレトは、若い人たちに呼び掛けています。「青春の日々を喜び楽しみなさい。けれども、あなたをお造りになり、いのちを与えてくださった神様のことを忘れてはいけない。すべての日々が神様のご支配の中にあることを覚えて、人生を楽しむように。」

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ!」そのように呼び掛けたコヘレトは、次にどんな言葉を続けるのでしょうか。若い時から神様のことを大切に生きていきなさい。そうすれば、大人になった時とてもいいことが起こる、誰もが羨むような立派な大人になることができる。そう約束しているのでしょうか。どうもそうではないようです。コヘレトは続けてこのように言います。「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と/言う年齢にならないうちに。」つまり、青春の日々の後に、苦しみの日々がやって来るというのです。今はまだ若いかもしれない。けれども、やがて老いる時が来ると言うのです。なぜ、老いることが苦しみなのでしょう。それは老いの先に、必ず「死」というものが待っているからです。

「コヘレトの言葉」は人間が老いるとはどういうことか。その現実について語ります(コヘレト12:2-6)。例えば、老いると目が霞む、視力が落ちる、憂鬱になる、腰が曲がる、歯が抜ける、耳が聞こえづらくなる、不眠症になる、階段や上り坂を昇るのが恐くなる、髪の毛が白くなるというふうに。このように、老いというものは具体的に心や体に表れてくるのです。そして、いつの日か、高価な鉢や壺が落ちて砕け散るように、人のいのちも尽きると言うのです。

また、「コヘレトの言葉」を読んでいると、幾度も「空しい」という言葉が繰り返されていることに気付きます。どうして神様を信じている人が、「空しい、空しい…」と繰り返すのでしょうか。とても不思議に思います。この「空しい」という言葉は、「束の間」とか「一瞬」という意味を持っています。束の間、一瞬というのですから、とにかく時間も余裕もないのです。歳を重ねて、過去を振り返る時、「あっという間だったなぁ」と思うことはよくあることです。人生を喜び楽しむ余裕などまったくなかった。それほど忙しく、思い悩む日々であった。自分が抱く夢や願いが実現することを追い求めながら、とうとう志し半ばに終わってしまった。そうかと言って、若い頃のように、もう一度頑張ろうという気持ちにはなれない。深いため息をつくように、「あっという間だった」と口にしてしまいます。

しかし、コヘレトはそうではありません。「空しい」「あっという間だった」と言って、人生を諦めているのでもありませんし、自分の好きなように生きようとしているのでもありません。神様から与えられた地上のいのちには限りがあるからこそ、賢く真剣に生きるようにと、呼び掛けているのです。コヘレトが繰り返す「空しい」という言葉は、「今を生きろ!」というメッセージでもあります。マルティン・ルターという牧師は、「たとえ明日、世の終わりが来ようと、私は今日、りんごの苗を植える」という有名な言葉を残しました。明日、世の終わりが来たならば、りんごの苗など植えてもまったく意味のないことです。空しいことです。しかし、そのことを十分承知のうえで、「明日、世の終わりが来ても、私はりんごの苗を植える」と言うのです。神様が与えてくださった人生最後の一日を、私は精一杯生きる。最後の一日でさえも、私はいのちを注いで生きる。それがイエス・キリストを信じる人の生き方だと言うのです。

若い人も、年老いた人にも、それぞれに楽しみがあり、同時に課題があります。予期せぬ形で死の現実が目の前に迫って来ることもあるでしょう。しかし、私たちのいのちは神様の御手の中にあります。死に勝利してくださったキリストのいのちが、空しさや死の恐れに捕らわれている私たちを包み込んでいます。ここに、今日を生きる力が生まれるのです。

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