夏が来れば思い出す

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聖書の言葉

いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。

新約聖書 マタイによる福音書 24章32節

禰津省一によるメッセージ

次第に暑さが厳しくなってきましたが、ラジオをお聞きくださっている皆さま、お変わりなくお過ごしでしょうか。まだ朝晩涼しさの残る4月の中頃だったと思います。キリストへの時間の6月の放送をお願いしますと担当の方から頼まれました。6月か、ああ、もう夏が近い頃だなと思ったのと同時に、わたしの心の中に一つのメロディーが浮かんできました。

それは「夏が来れば思い出す、遥かな尾瀬、遠い空」という歌詞から始まる曲、「夏の思い出」と言う有名な曲でした。今でも中学校で歌う歌ですし、また合唱曲としてよく知られ、愛されている歌です。この曲を聞くと、さわやかな高原の風景と夏の青空が自然に浮かんでくると言う人は多いのではないでしょうか。また尾瀬沼に咲いている白い水芭蕉の花の姿が浮かんでくる人もおられると思います。

冒頭にお読みしました聖書のみ言葉は、イエス・キリストが弟子たちに対して「世の終わりのしるし」について教えているみ言葉です。当時の人たちにとって、いちじくは、ナツメヤシと並んで、ドライフルーツとして保存できる栄養価の高い大切な食糧でした。いちじくの木が、大きく枝を伸ばし、葉を茂らせるのを見たなら、人々はやがて実がなると期待し、これを収穫する夏が近いことを知りました。それと同じように、イエス・キリストは世の終わりが近づいたことを知らせるしるしを弟子たちに教えてくださったのです。

この世界にはじまりがあったのなら、また終わりも必ずやってきます。聖書の世界観は、世界は永遠に同じことを繰り返す円環、あるいは輪廻の中にあるというものではありません。そうではなく、天地の創り主である全能の神の御手によって無から有へと創造された世界です。神の永遠のご計画に従って始められ、完成へと向かっている世界です。

今の世界は、天国のようにすべてが理想的な幸福に包まれている世界ではありません。地上の世界に住む私たち人間はまことに不完全な存在であり、互いに摩擦を生じながら生きています。それどころか、至るところに憎しみと暴力が姿を見せ、電車の中の小競り合いから、果ては国家の意思による武力の行使、戦争、大量殺人さえもが行われています。

聖書は、そのような不幸や不条理は神によるものではないと教えます。そうではなく神の御心に従わず、神に背く人間の罪が、あらゆる不幸の源だと教えます。世の終わり、それは人間の罪が最終的に裁かれるときです。罪が裁かれ、一掃され、世界は神の御心に適った世界として新しくされるのです。世の終わりの時は、神の救いの完成の時なのです。

しかし、そのとき一体誰が神の前に堂々と立ち、生き残ることができるしょうか。罪の問題が最終的に解決されなければなりません。聖書は、人間は神の御心を完全に行って人生を歩むことができない存在であると教えます。愛することができないのです。むしろ互いに妬んだり、うらやんだり、憎んだりして人生を歩みます。いつも自分が中心なのです。人と人との間でも、あるいは社会の様々な共同体の間でも争いが絶えることはありません。神様は、そのような人間の罪を忍耐しておられます。しかし、世の終わりの時には、総決算がなされます。

唯一の解決、希望はイエス・キリストにあります。世に罪が満ちているとしても、神はそのような罪の世を愛しておられます。わたしたちの罪が赦され、人と世界が新しくなるためにイエス・キリストが遣わされました。

今や、世界はイエス・キリストの誕生から二千年以上の歴史を刻んできました。まだ世の終わりは来ていません。しかし聖書は、世の終わりは常に近い、近づいていると語ります。世の終わりのしるしは、戦争や飢饉や、天変地異なのではないかと人々は考えました。イエス・キリストはそうではない、それらのことは必ず起こるが、まだ終わりではないと言われました。そして、主イエス様がおいでになり福音が宣べ伝えられていることが世のおわりのしるしだと言われました。世の終わりはいつでも来ると言わなければなりません。罪の解決の道はイエス・キリストを信じ、この方と結ばれることです。毎年、神の御心によって夏は必ず巡ってきます。そして世の終わりも必ず到来します。イエス・キリストの教会はいつでもあなたを歓迎いたします。

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