命の歩み

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聖書の言葉

神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。

新約聖書 マルコによる福音書 12章26,27

宇野元によるメッセージ

ヘルマン・ヘッセ。彼と、シュテファン・ツヴァイク。

二人の作家が交わした手紙を集めた本があります。ツヴァイクは、資産家の家に生まれ、ウィーンで暮らした都会のひと。ヘッセは、牧師の家に生まれ、田舎育ち。かたや、賑やかな街並みを愛する都会人。かたや、空と雲を友とする野性人。面白い組み合わせの、興味深い友情の手紙が収められています。1903年から、ヒトラーによってウィーンが占領された1938年まで。

ヘッセが最初の手紙を送りました。詩人として世にでることを夢みている青年が、交わりを求めています。ういういしい心が伝わってきます。

「あなたとうまくいくのでしょうか?だめでしょうか?」

最後の手紙もヘッセが書いています。ユダヤ人の友人が、イギリスに亡命を希望している。その人の助けになってくれないか。そんな願いを書き送ると、すでにそちらにのがれていたツヴァイクから、厳しい見通しを伝える返信がきました。

ヘッセはお礼の手紙をしたため、このように閉じています。

「こうしているあいだにも、日々状況が変化してゆきます。多くの人ががけっぷちに立たされています。ともすると、水がスポンジにしみ込むように、悲しみが胸にあふれます。」

ツヴァイクは、こののちブラジルに移り、そこで悲劇的な死にいたりました。

ヘッセ自身は、困難な時代を生き延び、作家として有終の美をなしたことは知られるところですが、多くの悲しみを経験し、多くの別れを経験しています。

わたしが好きな、彼の言葉があります。

一つの場所、また一つの場所と、快活に歩みぬこう。

(詩「階段」より)

きっぱりと、前を向いて進む姿。うしろをふりかえらない決意のようなものが感じられます。

聖書も、快活に前にすすむよう、私たちを招いています。

私たちにたしかな拠り所が与えられているからです。

花も、人も散る。死が人生の終わりであると考えている人たちに、イエスがこう言っています。

神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。また、「死んだ者の神ではない、生きている者の神である」と。

神は自由。そして私たちのためにおられる。神は私たちの想像力をこえる。このことは、私たちにたいする神の誠実を証ししている。私たちと共にある。それを保証している。この世に生まれた一人一人にたいして。

アブラハム、イサク、ヤコブ。これら聖書の人々の名前は、いわば私たちの代表として語られています。しかも、まるで私たちとおなじ時代の人のように。時間のへだたりは存在しないかのようです。神は死んだ者の神ではない、生きている者の神である。彼らはただ昔の人として語られておりません。

神のまえに、命が保たれている。神のもとにあって、私たちと共に守られている。いまを生きている私たちと共にある。ただ思い出のなかに生きているという意味でではなく。時をこえて、ともにある。

神の愛は、時間と場所をこえる――このことが示されています。

聖書が語る神は、秩序の神です。朝があり、夜がある。花が咲き、しおれる。私たち人間も、そのような存在。折々の「時」が与えられ、折々の場所が与えられます。

しかし、死者の復活は、この秩序をこえます。時をこえ、私たちが横断する場所をこえます。けさの言葉は、それを語っています。

神様は、自由な方。みずからの秩序を越えてくださる神である。私たちへの愛のゆえに。

イエスの勝利によって、この愛が証しされています。

一つの場所、また一つの場所と、旅する

一つの時、また別の新しい時を生きる

一つの場所に居続けることはできない。そして新しい困難に出会う。別れがあたえられる。

それにもかかわらず、招かれています

前をむいて、快活に、命の歩みをつづけるように

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ヘッセの手紙の言葉は、以下の本から引用しました。ヘッセ / ツヴァイク『往復書簡』(日本語訳は出版されていません)。Hermann Hesse, Stefan Zweig, Briefwechsel, Suhrkamp, 2006.

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