聖書の言葉
パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。
新約聖書 使徒言行録 16章25節
宇野元によるメッセージ
古代ローマ時代のキリスト教の歴史のはじめを伝える、使徒言行録のなかに、興味深い出来事が伝えられています。
ある町で地震があり、そこの牢屋がこわれました。牢屋の看守は、囚人たちが逃げてしまったと思い、剣をぬいて、みずからの命を絶とうとします。すると、イエスの弟子が叫びます。「わたしたちは、みなここにいます。死んではいけません」。
看守はおそれ、ふるえて、彼らパウロとシラスにたずねました。「先生がた、救われるためには、どうすればいいんですか?」
二人はこたえました。「主イエスを信じなさい。」(16:30,31)
信じる。このことについて教えられます。信じるということは、古代ローマの時代において、人との関わりかたを表しておりました。
古代ローマの人々も、いまの私たちとおなじように、いろいろな圧力の中で揉まれていたでしょう。それぞれが、持ち場において責任をゆだねられておりました。そして、責任を負う相手がおりました。すなわち、みずからの上に権威が存在しています。この関わりが、ひとつの言葉で表わされています。「誠実」。聖書は、このつながりにおいて、信じるということについて私たちに語っています。
牢の看守は、この意味で、新しい関係に入るように、力強く招かれています。権威にたいして償いをつけようとした。「誠実」を示そうとしました。ローマの人間らしく、剣によって。この人に招きが与えられます。別の権威をもつように。イエスを主とするように。そして生きるように。恐れから自由にされるように。
この招きを与えた者たち。パウロとシラスは、牢屋のなかにおりました。とても不自由な状況、困難で、制約された状況、社会的距離のなかにあって、彼らはどんなふうにすごしていたか。「真夜中ごろ、パウロとシラスは賛美の歌をうたって神に祈っていた」。さらに、ここにふしぎな影響が生まれています。おなじ困難な状況にある人々が、彼らの言葉に耳を傾けています。
パウロとシラスは、神を賛美する歌をうたい、お祈りをしておりました。暗い、閉じ込められた場所で。けれども、だれのもとにあるのか。だれが主人か。祈るとき、それを知るよう導かれます。私たちのために苦しみ、勝利した、イエスの事実のもとに置かれています。そして、イエスを送られたほどに、私たちの世界を愛された天の父のもとにあります。
祈りは、私たちの目にみえない事実に私たちの心の目をひらいてくれます。地震がおきたのは、彼らが祈っていたときでした。彼らは鎖から自由にされます。
しかし神様は、目に見える鎖からだけでなく、見えない鎖からも、私たちを自由にしてくださる方です。暗い日にも、それを見るように。祈りへの招きがここに与えられています。
アウグスティヌスがこういうことを書いています。私たちは、私たちの人生を、いわば二つの面を重ねて見ることができる。
「ひとつの面は、目でみえる。もうひとつの面は、信仰による。ひとつは、時間のなかの現実。もうひとつは、永遠のなかの現実。ひとつは、骨折り・苦労の現実。もうひとつは、憩いの現実。ひとつは、途中にある私たちの歩み。もうひとつは、目に見えない故郷におけるゴール。」
ひとつの面は、いつも目で見ています。骨折りながら進む現実がありますね。いま、どのように歩んでおられるでしょうか?私たちはともに、先の見通しが悪いところを歩みつづけています。今はどうでしょう?
もうひとつの面は、私たちの目にみえません。けれども、いつも、どんなときも、動かずに与えられています。そのために、ちょうど天井に窓が設けられるように、祈りが設けられています。暗い夜も、天窓から星を見ることができるように、神様の変わらぬ顧みを見るように。
困難の中にある私たちも、このとき聞き入っていた人たちのように思いを導かれたいものです。自由にされるために。