鍵はどこに?

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聖書の言葉

一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 3章22,23節

常石召一によるメッセージ

私は以前、会社員として働いていました。出張を翌日に控えたある日、準備のために夜遅くまで会社にいました。そして準備を終えて終電に飛び乗って家へと帰りました。丁度その日は、妻が用事で実家に帰っていて留守でした。翌日は朝早く新幹線に乗らなければならないので、早く寝なければならないな、こう思って、家の鍵を開けようとした所、カバンの中に入っているはずの鍵が見つからないのです。すぐに、会社の机の中に鍵を入れたままにしていたことを思い出しました。普段は鍵を机に入れることはないのですが、その日はたまたま机の中に入れていたのです。忘れないようにしよう、ちゃんと持って帰らないといけないと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていたのです。

スーツは家の中にあります。私は普段はラフな格好で会社に行っていました。とても出張でお客さんの前に出られるような服装ではありません。鍵を取りに会社まで戻るとなると、タクシーで片道5000円くらいです。往復すればお金も時間もかかりすぎます。困ったことになりました。私はあせる気持ちを落ち着かせようとしながら、柵を越えて家の裏側に行きました。もしかしたら鍵を閉め忘れている箇所がないだろうかと期待したのです。普段はあってはならないことですが、妻がそういうミスをしてくれていないかな、と確認してみました。しかしどこもちゃんとしまっていました。「何でちゃんとしているねん」と思いました。その中で一か所だけ鍵のかかっていない所がありました。面格子が取り付けられた窓です。面格子とは不審者が外部から侵入できないようにするものです。それをはずさないと中に入れないのですが、当然、工具など持っていません。

いよいよ途方にくれましたが、「神様助けて下さい」と心の中で祈りながらその面格子を引っ張ってみました。すると面格子を固定していたネジが一回でとれたのです。それ程強い力で引っ張った訳ではありません。築何十年も経っていて、一か所だけネジが錆びてボロボロになっていたのです。それで隙間を作ることに成功し、そこから何とか家の中に入ることが出来ました。助かったと思いました。

どうしてこのような奇跡が起こったのでしょうか。神様を信じていたからでしょうか。もしそうであれば、ミスを犯しても神様は助けてくれるんだと、神様を便利屋のように考えることになってしまいます。どうせ神様が何とかして下さるのだからと、注意を怠ってしまうことにもなりかねません。そんなことは神様の望んでおられることではありません。神様は私たちにとって都合の良いお方、私たちに仕える奴隷ではないのです。

やはり私たちは気を付けなければなりません。しかしいくら気を付けても、人生においてやはり失敗はどうしても付きまといます。私たちにとって最も大切なのは、人生全体が結局は失敗に終わる、そうならないようにする、ということです。この世の生涯をたとえ一生懸命に頑張って生きたとしても、これが天国へ入る鍵だと思ったものが、全然鍵穴と合致しない、そうなれば大変です。

誰もが、良い人生を送りたい、そして天国へ入る鍵を手に入れたい、と思っていると思います。そして頑張ればその鍵を手に入れることが出来ると、何となく考えているのではないでしょうか。けれども、いざ自分の死を前にした時、「本当に大丈夫だろうか」との思いが湧いて来るのだと思います。誰かを赦せずにいたり、逆に誰かに酷いことをしてしまい、謝らなければならないのにうやむやにして来た、そんなことが思い出される。こんな自分が赦されるのか、天国に受け入れられるのかと不安が押し寄せてくるのではないでしょうか。

初めにお読みしましたが、聖書には「あなたがたはキリストのもの」と書かれています。これは、イエス・キリストを救い主として信じるならば、私たちの失敗の責任も含めて全部をイエス・キリストが背負って下さるということです。私たちがこの世の生涯を終えて天国の前まで行った時に、たとえ全く不十分だったと思っても、「あなたは私のもの。あなたが天国へと入る鍵も私が持っている」とイエス・キリストが言って下さる、「これで天国に入りなさい」と、イエス・キリストが天国の扉を開いて下さる、ということです。天国へ入る鍵も、そして安心してこの世の生涯を終える鍵も、イエス・キリストを信じるということにかかっています。

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