ザアカイの告白

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聖書の言葉

イエスはエリコに入り、街を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

新約聖書 ルカによる福音書 19章1~3節

江戸浩三によるメッセージ

ただいま朗読しました聖書にザアカイという男の人が登場します。

今朝はザアカイという人の信仰を通して聖書の御言葉をお伝えします。

ザアカイは税金を徴収する仕事の頭でしたが、人々から嫌われていました。

あるとき、イエス様が町に来ることを聞いたザアカイはイエス様がどんな人か見ようと

先回りして木に登りしました。

イエス様はその場所に来ると上を見上げて「ザアカイ急いで降りてきなさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と言いました。初めて会ったザアカイなのにイエス様は彼の名前を呼び、声をかけられたことは不思議な事です。

金持ちなのに友達もいない心の寂しいザアカイにとって驚くべきことでした。

ザアカイは喜んでイエス様を迎えました。

これを見た人々は「あの人は罪深い男の所に行って宿をとった」とイエス様のことを

つぶやきました。そんな中でイエス様との出会いを通して喜び溢れながら「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」と言いました。

彼はイエス様との出会いによって自分が今まで多くの罪を犯してきた、という事実を大胆に告白しているのです。

イエス様との出会いを経験する者は、自らの罪を隠す必要がなくなります。

今まで、私たちはそれを明らかにすれば自分の存在が危うくなる、人々から非難され、

あるいは見捨てられてしまう、と考えていました。

だから、その罪を認めることも告白することも出来なかったのです。

しかし、イエス様はありのままの私たちを受け入れ、その罪を許して下さるのです。

だから、私たちはイエス様に自らの罪を告白することが出来るのです。

ザアカイは偶然イエス様とお会いできたのでしょうか?

いや、この出会いのシーンには神様の計画が明確に見えるのです。

自分の居場所さえ見失っていたザアカイがイエス様に見つけ出してもらう場所と、時が神様の計画にありました。

神様はザアカイを見つけ出すためにイエス様を遣わしてくださったのです。

そして、この出来事はザアカイの人生にだけ起こった、と聖書は言っていません。

イエス・キリストと出会い、信仰に入れられた私たち一人一人の人生の上にも同じような出来事がおこったと教えています。

私達とイエス様との出会いは決して偶然なものではありません。

神様の計画に従って、イエス様が私たちを探し出してくださったから、教会を居場所としているのです。だからこそ、このザアカイの喜びを共有している者でもあると言えます。

私は洗礼を受けて50年になりました。かつて聖書も讃美歌も見たことも聴いたこともない私が、今の自分を振り返り、何とも不思議でなりません。

いろいろな人を介して教会に導かれたことは事実ですが、何よりも50年も教会に定着して子どもも、孫もイエス様に繋がっている今は、ザアカイのイエス様との出会いに匹敵するくらい神様の計画と導きを感じます。

1962年に上京して、当時お世話になっていた先生の説教で「キリスト教信仰は大きく、広く、温かく、無限の赦しがありますよ?」と耳にしたことを思い出します。

良く理解も出来ずにいましたが、心にズッと残っていました。

それから1970年の受洗まで8年もかかりました。いつも気配りをして下さり、励ましてくださいました。イエス・キリストの愛をいつも話してくれた事を思い出します。

信仰告白して50年たちました、と言っても私は心に多くの罪を犯し、罪の告白はまことに重苦しいものがあります。

こんな者でも神様は見捨てず、救いの手を差し伸べて下さっています。

ラジオお聴きの皆さんの中で、自分は友達もいない、体が弱くいつも一人ぼっちで教会に行きたくてもそんな機会もなく寂しい、と思っている方はおられませんか?

また、心に罪多く、教会に行けるようなそんな自分ではない、と自分を心の密室に閉じ込めている方はいませんか?

私たちの信ずる神様は懐の大きい、唯一の神を神とするキリスト教信仰です。

真の神様以外に何を求め、何に依り頼んで生きていけるのでしょうか?

どうかキリスト教会に心を向け、足を運んでください。

教会はあなたをこころからお待ちしています。

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