分かち合う豊かさ

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聖書の言葉

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。

新約聖書 使徒言行録 4章32節

吉田実によるメッセージ

新しい年を迎えて皆様はいかがおすごしでしょうか。私事で大変恐縮ですが、私は2020年の3月末をもって21年間務めた神戸長田教会での働きに一区切りつけ、4月から但馬みくに教会に遣わされています。養父市大屋町にあります大屋教会と、朝来市和田山町にあります和田山教会が一つになって、但馬みくに教会となりました。まだ新しい会堂が完成していませんし、コロナ禍の中にありますのでそれぞれの集会所で別々に礼拝を捧げているのですけれども、私は大屋教会があります大屋町由良と言うところに住んでいます。こちらはすぐ近くに大屋川と言う綺麗な川が流れていまして、シラサギやカモなど野生の鳥の姿をいつも見ることが出来ます。高い山に囲まれた、自然豊かな所です。引っ越してきた頃には山桜が綺麗に咲いていましたし、夏には田んぼでカエルの大合唱を聞きました。秋の紅葉も見事でしたが、今は初めての厳しい冬を過ごしています。近くにスキー場があるくらいですので、雪も結構積もります。神戸からこのような自然豊かな、いわゆる田舎に引っ越して来ましたので、いろいろと新鮮な発見があるのですけれども、まず新鮮に感じましたことは、こちらの方々の分かち合う姿勢です。こちらは農業に従事しておられる方が多いのですけれども、農家ではなくても畑を持っておられて、ご自宅用の野菜などを作っておられる方がたくさんいらっしゃいます。それで教会員の皆さんはもちろんのこと、ご近所の方々も、一度ごあいさつに回っただけの私たちに、野菜やお花などを結構頻繁に届けてくださいます。それがとても新鮮で嬉しくて、感激しているのです。そのようにしてこちらの方々はごく自然に、分かち合い助け合いながら共に暮らしていらっしゃるのですけれども、それは人間が人間らしく生きて行くための本質にかかわる、とても大切なことではないかと改めて思わされています。

いつの頃かからか「自己責任」と言う言葉がとても冷たい響きをもって語られるようになったような気がしますけれども、それはもしかすると「改革なくして成長なし」というようなことが叫ばれ、「規制緩和」をして自由に競争することで公平な社会が生まれると多くの人々が信じて、社会全体が世界規模の競争原理の中に巻き込まれて行くようになってからのことかもしれません。競争がすべて悪いとは思いませんし、競い合ってこそ成長するということも勿論あると思います。けれども、人間としての最低限の生活や一人の人間としての存在価値のような基本的な大前提が次第に怪しくなって、負けた人は本人の能力不足、努力不足、つまり自己責任だと冷たく言われるような雰囲気の中で、働き方が変わり、格差が広がり、将来に希望が持ちにくくて、生きにくさを感じておられる方々は少なくないのではないでしょうか。助け合い分かち合うどころか、「蹴落とされたらおしまい」と言うような過酷な日々の中で、心病む人は増え、人間らしく生きるという、ある意味で当たり前のことがだんだんと当たり前でなくなってきた。そんな10年、20年だったような気がしてなりません。そのようなことを感じる中で、田舎の人々がごく自然に助け合い分かち合う姿は、とても新鮮で心が癒されるような気がしています。

幼稚園や保育所で、備え付けのおもちゃを「これは僕のだ」と言って誰かが独占するようなところから子ども同士の喧嘩が始まるように、もしかすると、似たようなことは大人の社会でも、しかも世界規模で起こっているのかもしれません。いつの世もそういう争いが終わることなく続いて来たのかもしれません。一方聖書を見ますと、最初のキリスト教会が誕生しました時に、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」と書かれています。「自分のものだ」と言う者がいない。それは、「全てのものは神様のものだ」と信じているからです。そんな最初の教会にも日々の分配の不公平によって苦情が出るというような、問題があったことも聖書は隠さず記しています。けれども、そこで新たな改善策が検討され受け入れられることによって、分かち合い助け合う共同体としてさらに整えられて歩んで行った姿も、その後に描かれています。自然豊かな田舎に是非遊びに来ていただきたいと思いますけれども、遠くに行かなくても、皆様の町のキリスト教会をぜひ訪ねてみてください。コロナ禍の中にあって苦労しながらも、懸命に助け合い、分かち合いながら共に生きることを諦めない、人間らしい生き方をしている人たちと、そこで出会えるに違いありません。

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