聖書の言葉
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
新約聖書 ルカによる福音書 15章20節
川瀬弓弦によるメッセージ
今朝も先週に引き続き、子どもの歌からお送りします。子どもの歌は時に素直すぎて、大人が聞くと「単純すぎやしないか?」とか「現実はこんなに甘くない」と言ってしまいたくなることもあります。でも、神さまのことを理解するためには、どうしても子どものような心が必要です。そんな気持ちでまずはお聞きください。
♪「イエス様の愛に触れられて」
イエス様、あなたは、私を見ている。
いつも、苦しい時こそ励まされる方。
私があなたを忘れていた時も、ずっと守ってくれた、赦してくれていた。
イエス様の愛に今、触れられて、輝いている自分に気づいた。
「私があなたを忘れていた時も、ずっと守ってくれた、赦してくれていた」。イエス・キリストの大変有名なたとえ話に、「放蕩息子のたとえ」というものがあります。たとえの中で息子は、お父さんの財産の内から自分の分け前をもって家を出てしまいました。お父さんの家は窮屈で自由がないと思ったからです。そして遠い国で財産を使い果たし、食べるものにも困り、飢え死にしそうになった時、やっと自分の家のことを思い出しました。家に帰ろう、そう思ったのです。
でも、彼は考えます。どうしたら赦してもらえるだろうか、受け入れてもらえるだろうか。いいえ、父に対するこれまでのひどい仕打ちを振り返るなら、受け入れられるなどとんでもない。生き延びるためのパンにさえありつければ、それで十分だと思いました。父のことをずっと忘れていたのですから。
ところが父はどうだったでしょうか。まだ息子がずっと遠くにいのに彼を見つけて、憐れに思い、思わず走り出してしまうのです。舞台となったイスラエルや中東地域では、父親は自分の威厳を保つために、子どもの前ではどうどうと歩かないとならないそうです。ましてや親不孝者のために走り出す父親など考えられないことです。
しかし、私たちの父なる神は違います。遠くにいるのに見つけたと言うのですから、毎日ずっと家の外で待ち続けたのです。私たちが神のことを忘れていた時も、片時も私たちのことを忘れず、私たちを待ち続けていてくださる。そして、息子が帰ってきたならどうするかを父は最初から心に決めていました。抱きしめ、赦し、受け入れよう。どれだけこの日を待ち望んでいたのか、どれほど愛してきたのかを息子に示そう。
皆さんに知ってほしいのです。私たちは罪を赦してもらうために神さまのところに帰るのではありません。必ず赦してくださるので帰るのです。神は今もあなたの帰りを待っておられます。赦しの福音をもって。だから私たちも神のもとに帰りましょう。