“なお”の由来

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聖書の言葉

彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 4章18節

藤井真によるメッセージ

6月にふたり目の子どもが与えられました。ひとり目は男の子、今回のふたり目は女の子でした。名前を「なお」と名付けました。どうして「なお」と名付けたのでしょう。クリスチャンの家庭に生まれた子どもですから、聖書の言葉から取ったのだろう。あるいは、何か信仰的な意味があるのだろう。そう思われるかもしれません。それはそのとおりなのですが、「なお」という名前に聖書的・信仰的な意味を込めたのは、実はあとになってからのことでした。

ことの発端は、当時4歳だった長男が、お母さんのお腹に赤ちゃんがいるということが分かってから、なぜか急に「なおちゃん」と呼び出したのがきっかけでした。教会にも、息子が通う保育園の友だちにも、また好きなテレビアニメのキャラクターにも「なお」という名前の人はいなかったのですけれども、なぜか息子は「なおちゃん」と呼び続けていたのです。私は、私のほうで聖書の言葉に基づいて、生まれてくる娘の名前をいくつか考えていました。思い付きで考えたような名前を人に付けるものではないと思っていましたので、最初は「なお」にする予定はまったくなかったのです。でも、息子がお腹の赤ちゃんに心から「なおちゃん」と呼び続ける姿を見て、私も妻も、生まれてくる子を「なお」と名付けることに決めたのです。

この「なお」という娘の名前ですが、私たち夫婦は、やはりちゃんと意味を込めたいと思いました。「なお」と聞いて、いくつかの聖書の言葉を思い起こしました。その中から、今日は一つの御言葉を紹介します。それが、お話の最初にお読みしたローマの信徒への手紙の御言葉です。この手紙を書いたのはパウロという伝道者です。パウロはここで旧約聖書に出てくる「アブラハム」という人物を取り上げながら、信じて生きるというのはどういうことか。神様の救いとはどういうものかを丁寧に語ります。

パウロはアブラハムの物語を紹介しながら、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて」と語りました。「信仰の父」と称されるアブラハムですが、彼は完璧な信仰の持ち主ではありませんでした。神の約束を信じて歩み始めたものの、途中で信じられなくなりました。アブラハムに与えられる祝福が、彼の子孫にも広がっていくと神様は約束してくださいました。しかし、なかなか子どもが与えられません。救いの約束が一歩も前進していないように見えたのです。それにアブラハム夫婦はもうずいぶんな高齢でした。人間的な目で見ると、到底、子どもを産むことができるような年齢ではありませんでした。段々とアブラハムは、神の約束を信じられなくなり、それでどうしたのかと言うと、「神の約束が成就するとは、きっとこういうことに違いない」と勝手に決めつけて、自らの手で神の約束を実現させようとしたのです。しかし、当然、神様がお考えになることをと私たち人間が考えることは違いますから、そこには何の実りも生まれませんでした。

そんなアブラハムが、「なおも望みを抱いて」と言うことができたのは、彼自身の中に何か望みの根拠があったからではありません。「こうなったらいいのに」と強く願ったところで、どうにかなるようなものでもないのです。本当だったら、失望する他ないような状態の中で、「なおも望みを抱いて」と言うことができるというのは、とても不思議に思えます。とてもおかしな言葉遣いとも言えるでしょう。しかし、「なおも望みを抱いて、信じ(る)」ことができたのは、私たち人間の側にではなく、ただ神様の側にだけ希望があるからです。神様の約束だけが、私たちに希望を与えるのです。アブラハムは、神様との語らいの中で、その信仰の真実を示されたのです。やがてイサクという子が産まれ、神の約束がここから更に広がっていくことになるのです。

私の娘の「なお」という名前は、「なおも望みを抱いて」という言葉から取りました。「望み」とか「信じる」という言葉に比べれば、「なおも」というのは、そこまで目立たない言葉でしょう。でも、私はこの聖書の言葉と出会った時から、「なおも」という小さな言葉にどこか心惹きつけられるような思いがずっとしてきました。望み得ないところで、「なおも」という言葉を口にしながら、神様の約束の希望に生きることができる。これは本当に素晴らしいことです。

生まれたばかりの赤ちゃんは言葉を話せません。神様がどんなお方であるかもまだ知らないことでしょう。しかし、生まれる前から神様に知られ、神様に愛されている子どもであることだけは確かな事実です。このことは、この放送をお聞きの皆様にも与えられている約束です。「なおも」と口にしながら、希望があることを信じて、一歩に踏み出すことができる幸いを、神様は与えてくださいます。たとえ、地上の歩みが途絶えそうになっても、神はいのちの希望を、イエス・キリストにおいて見せてくださるのです。

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