惜しむ神

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聖書の言葉

すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」

旧約聖書 ヨナ書 4章10,11節

望月信によるメッセージ

今日も、旧約のヨナ書からお話しいたします。ヨナは主なる神に命じられてニネベに行き、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と告げ知らせました。イスラエルにとって、ニネベは敵国と言うべき国です。ですから、ヨナ自身、神がおっしゃるとおり、ニネベは滅ぼされてよいと考えていたのでしょう。ところが、滅びを告げられたニネベの人びとは、悔い改めて神に立ち帰りました。そして、それを御覧になった神は、思い直してしまわれた。告げていたとおり滅ぼすのではなく、思いとどまられたのです。「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った」、そう言って、ヨナ書4章は始まります。ヨナは、ニネベに災いをくだすことを思い直された神に対して怒りをあらわにしました。裁きを告げていたのに、神に裏切られたと思ったのです。ここではまず、神に怒りをぶつけて問いかけることの大切さを心に留めましょう。神に裏切られたと思うとき、神から離れ、信仰を捨ててしまうのであってはなりません。真実の神はただお一人だからです。神に対して不満があり、怒りを感じるならば、徹底してそのお一人の神に訴え続けなければなりません。それをしたのが、このヨナでありました。理不尽だと感じるとき、神から離れるのではなく、神に叫び、神に率直に問いかけるのです。そうすると、神は確かに答えてくださるお方です。

とりわけ、ヨナの怒りは決して筋の通らないものではありませんでした。ヨナは預言者として、ニネベは滅びると告げ知らせました。ところが、神が思い直されたゆえに、ニネベは滅びず、ヨナが告げたことは実現しませんでした。それは、ヨナが偽預言者にされたということであり、さらには神の御言葉の真実が裏切られたのではないか、また、悪に満ちていたニネベが災いを免れることによって、神の正義が失われることになったのではないか、そのような問いをも生むものだったのです。

そのヨナに、主なる神はとうごまの木を与えました。この木は、手のひらのように広がる大きな葉を豊かに茂らせるため、日陰を造り出すのに適した木なのだそうです。暑さの厳しいニネベでも、頭上に青々とした葉が茂って、太陽の日射しを遮ってくれると、涼しく過ごすことができたのでしょう。ヨナは、このとうごまの木を大いに喜びました。ところが、そのとうごまの木が虫に食い尽くされてあっという間に枯れてしまいます。太陽が再びヨナの頭上から照りつけると、ヨナは再び怒りをあらわにして、「怒りのあまり死にたいくらいです」と言いました。

このとうごまの木の出来事を通して、主なる神はヨナに「惜しむ」ことを教えておられます。「惜しむ」とは、愛着を持ち、もったいないと思うことです。未練が残っているということです。ヨナは、厳しい暑さの中でとうごまの木に愛着を持ち、もったいないと思いました。自分が苦労して育てたのではない、とうごまの木さえ惜しんだのです。主なる神は、そのような惜しむ心で、ニネベの都を愛しているとおっしゃいます。ニネベの人々は神ご自身が造った神の尊い作品なのです。神はニネベの人々を愛して愛着を持っておられ、たとえ神から離れていたとしても、その愛は変わりません。

こうしてヨナ書は、神に敵対し、逆らう者さえ愛する神の愛を明らかにしています。新約のイエス・キリストにおいて示される神だけが愛の神なのではありません。旧約の「滅ぼす」とおっしゃる神も真実には愛の神なのであり、お一人の神にほかなりません。その神の愛、惜しむ愛が御子イエス・キリストにおいて究極的な仕方で明らかにされました。主イエス・キリストが、私たち、神に敵対し、逆らう者の身代わりになって死んでくださったからです。こうして、主イエス・キリストにおいて罪と悪への刑罰がくだされ、神の正義は貫かれるのだと示されました。神の愛、私たちを愛して惜しむ愛も貫かれています。神の愛、惜しむ愛は、とこしえに変わることがありません。皆さんも、この神の愛、惜しむ愛によって、神の御前に招かれています。

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