振り向かれること、振り向くこと②

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聖書の言葉

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

新約聖書 ヨハネによる福音書 20章16節

藤井真によるメッセージ

私たちは、自らの歩みをいったん止めて、後ろを振り向く時が必要なのかもしれません。それは、決して後ろ向きというような、消極的なことではなくて、本当の意味で前を向いて歩くことができるためになくてはならないものなのです。

復活の主イエスは、マグダラのマリアと呼ばれる女性の名を呼ばれました。すると、彼女は振り向きます。そして、「ラボニ(先生)」と主イエスのことを呼んだのです。マリアに対してだけではありません。主イエスは、私たちの名前も呼んでくださいます。主の御声に応えて、振り向く時、私たちの体だけではなく、私たちの心が、私たちの生き方が大きく変えられていくのです。

マリアは、主イエスが十字架で死なれたことを深く悲しみました。男の弟子たちが、恐くて主を見捨てる中、彼女は最後まで主に付いて行った女性でした。主が十字架につけられ亡くなられてから三日目の朝、つまり、日曜日の朝、マリアは主イエスの遺体が収められた墓の前にいました。手には香料があります。死んでしまったのはどうしようもないけれども、せめて、遺体に香料を塗り、生きていた時のような美しさを少しでも保つことができたらと思ったのでしょう。彼女なりの精一杯の愛を示したったのです。

しかし、日曜日の朝、思いもしない出来事が起こりました。墓の中にあるはずの主イエスの遺体が見当たらないのです。誰かが盗んでどこかに持っていってしまったのでしょうか。いいえ。主イエスはお甦りになられたのです!でもマリアには、まだ何が起こったのか分かりませんでした。思わず彼女の目から涙が溢れ出ます。今日はイースターです。一年の中で、キリスト教会が最も盛大に喜び祝う時と言っても過言ではありません。しかし、世界で最初のイースターの朝を、涙を流しながら迎えた人がいたのです。

マリアは、十字架で死なれた主が、たとえ生き返ることがないと分かっていても、遺体が墓の中にあれば、それだけでもいいと思っていました。おかしな言い方かもしれませんけれども、マリアはいのちよりも死の力の方が強いのだと信じていたのでしょう。この世の中は不確かなことばかり、本当に何を信じればいいのか分からない。ただそのような中にあって、「死」ということだけは確かなことだと信じていたのです。しかし、主イエスの復活の出来事は、確かだと思っていた死の力が不確かなものであり、信ずべきものは復活の主であり、死に勝利したいのちこそ確かなものであるということが明らかになった時でした。

ヨハネによる福音書第20章を読みますと、興味深いことに、マリアは二度振り向いていることが分かります。一度目に、振り向いた時、復活の主は彼女の後ろに立っておられたにもかかわらず、それに気付きませんでした。涙で目が霞んでいたからというのではありません。心の目が絶望の闇、死の闇によって閉ざされていたのです。しかし、主イエスはおっしゃいます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」(15節)。「なぜ泣いているのか?」それは、「もうあなたは泣かなくてもよい」ということでしょう。「わたしがあなたの涙を受け止める。だから、あなたはもう泣かなくてもよい。わたしは甦ったのだから…」。

そして、復活の主イエスは、御自分のことにまだ気付いていない彼女に向かって「マリア」と呼び掛けます。その呼び声を聞いて、彼女はもう一度振り向くのです。一度目は、墓の中を見ていたマリアが後ろを振り向きます。さらに、ここでもう一度振り向いたら、はじめに見つめていた墓をもう一度見てしまうということになります。でも問題は体の向きを180度回したとか、360度回したとか、そういうことではありません。大切なのは、心を復活の主イエスに向けるということです。その時に、虚しさから満ち足りた思いに、悲しみから喜びに、絶望から希望に、私たちの思いが変えられていきます。マリアは、二度目に振り向いた時に、私の名を呼んでくださるお方が、復活の主であることに気付かされていったのです。

「マリア」という復活の主の呼び掛けに対して、「ラボニ」と応えます。「ラボニ」、それは「先生」という意味ですが、この福音書を記したヨハネは、「ラボニ」という主イエスが口にしていたアラム語、あるいはアラム語と呼ばれる言葉をそのまま書き残したのです。代々の教会は、この「ラボニ」という言葉を、そのまま心に留め愛し続けてきました。それは、空っぽの墓の中を見つめるように、虚しさと絶望しか見つめることができない自分たちがいたからでしょう。

でも、復活の主イエスが、マリアの時と同じように、私の名前も呼んでくださったのです。そして振り返った先に、復活の主がいてくださったのです。その喜びが「ラボニ」という言葉の中に込められています。もう、罪と死の力に取り囲まれて歩む必要はありません。私たちの歩みは、復活の主の御手の中にあります。幾度も私の名を呼んでくださる復活の主が、私たちの歩みをまことのいのちの方向へと導いでくださいます。「いのちに向かって歩もう!」と呼び掛けてくださる方がここにおられるのです。

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