聖書の言葉
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
新約聖書 ルカによる福音書 22章61,62節
藤井真によるメッセージ
私たちは、ふと誰かに見つめられることがあります。そして、その人の視線の奥にあるものがいったい何であるのか?そのことが気になって仕方がないということがあるのではないでしょうか。
イエス・キリストの弟子に「ペトロ」という人がいました。12人いた弟子たちの中でも、「一番弟子」と言ってもよいでありましょう。主イエスから叱られることも多くありましたが、それでも挫けることなく、最後までついて行きました。しかし、愛する主イエスが人々に捕らえられ、十字架を前にするという時、ペトロは「イエスのことなど知らない」と三度否んでしまったのです。「私とイエスという男は何の関係もない」と口にしてしまったのです。この時のペトロの心境はどのようなものだったのでしょうか。「しまった。こんなはずではなかった」という思いだったのでしょうか。それとも、イエスとの関係を否定したことによって「自分のいのちは助かった」と思って、ホッとしたのでしょうか。詳しいことは分かりません。
しかし、そんなペトロに振り向いて見つめられた方がおられたのです。それがイエス・キリストでした。どうしてもわたしは、振り返って、裏切ったペトロを見つめなければいけない。主はそう思われたのです。実は、主イエスはペトロに対して、「あなたは、鶏が鳴く前に、三度、わたしのことを知らないと言うだろう」と以前から予告しておられました。もちろん、ペトロは、「ご一緒に死ななければいけなくなったとしても、あなたのことを知らないなどとは決して申しませ。」そう言って、主の言葉を必死に否定します。けれども、自分の決心は見事に崩れ去ってしまったのです。
主イエスは、自分のことを三度否んだペトロの方に振り向き、見つめられました。主はどのような思いで後ろを振り向き、ペトロを見つめられたのでしょう。また、ペトロは、振り向いて自分を見つめる主のまなざしの奥に、何を感じとったのでしょう。「お前は何ていうことをしてくれたんだ」という厳しいまなざしだったのでしょうか。裏切った自分に対する怒りと裁きをそこに見て取ったのでしょうか。主イエスもまた、「わたしが予告したとおりになっただろ。ペトロよ、お前は何を強がっているんだ。どうせお前はわたしについて来ることなどできないのだ」。そのような悲しみと怒りを込めて、ペトロを見つめられたのでしょうか。
もちろん、主はペトロが裏切ったことを悲しく思ったことでありましょう。ペトロも自分の罪を深く悔いたことでしょう。しかし、私はそれだけではなかったと思います。ペトロは、この直後、外に出て激しく泣くのです。ペトロの涙は、イエス様が恐いからとか、自分自身が情けないからとか、そういう理由だけで流したものではないと思います。自分の罪をすべて知っていてくださった主が、この私のために十字架にかかって死んでくださることを知った涙。主の十字架における愛と赦しが、この私のものであるという恵みを知って流した涙だったのではないでしょうか。
主イエスは、ペトロの裏切りを予告した時に、こんなことをおっしゃってくださいました。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)ペトロは、どんな罪の中にあったとても、主イエスの祈りに支えられている存在です。罪のゆえに挫折した人間に対して、立ち直る前から、「あなたはもう立ち直った人間なのだ」と驚くべきことをおっしゃってくださるお方、それが主イエスです。
主イエスは、御自分を裏切ったペトロをずっと見つめ続けていたわけではありませんでした。主はペトロに向けていたそのまなざしを、180度向きを変えて、前へと歩み出します。もう一度向きを変え、御自分が歩むべき道を歩んで行かれたのです。それは、裏切ったペトロに背を向けたわけではありません。「わたしのことを知らない」と言ったペトロの顔などもう見たくはないということでもないのです。振り向いてペトロを見つめられたその同じまなざしで、十字架を見つめ歩んで行かれるのです。ペトロを罪から救い出すために、ペトロが立ち直って、もう一度、主の弟子として歩み出すために、主は十字架の道を進んで行かれます。
主イエスは振り向いて、あなたのことも見つめておられます。どうしたら、挫折をしない強い人間になれるのかということを考えるのではなく、たとえ挫折したとしても立ち直る道があるのだということを聖書は伝えています。主イエスのまなざしの奥にある、神様の愛と赦しを知る時に、本当の意味で人間は立ち直って生きることができます。