魂の救い

日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。
新約聖書 ルカによる福音書 4章40節
聖書にはイエス様の説教、お話しを通して色々な奇跡が示されています。病気の人を回復させたり、
嵐を静めたり、水をワインに変えたり、と人々の驚きを目の当たりにさせる光景が広げられました。
私たちは予想を超えた大きな変化を求める時、「奇跡が起こればいい」なんて表現をします。
考えてみると、奇跡を自分から表わすことは出来ません。現代の世界でイエス様のように奇跡を行う方はいません。奇跡はイエス・キリストが語った神様の権威ある言葉のみによってなされました。
目の前にイエス様がいない現代は「聖書」という神様の言葉から奇跡を知り、味わう事が出来ます。
奇跡を通して神様が求めていることは、ただ病気が治って体の健康が回復されることを救いの目的としたのではありません。
イエス様はこの世で罪に苦しむ人々の魂の救いこそが最も大切な目的であると言ってます。
いかがでしょうか?今、イエス様が目の前に居て私の病気を治して下さった、としましょう。
私は喜び勇んで飛びあがりながらイエス様に感謝して走り去ったことでしょう。
しかし、その後、私は教会にも行かず、神さまの声に耳を貸さず、心に信仰を持つことを忘れてしまったなら神さまは嘆き悲しむことでしょう。身体の病気を治したのは目に見えるホンの印だったのです。
心の悔い改めが無かったなら神様はどんなに悲しまれることでしょうか?
イエス・キリストは奇跡を通して神様の国を教え、魂の救いを教えようとされていたのです。
今年の春、私の家内に予想外の病が発覚しました。検査をし、手術をしてその病の回復を得る事が出来ました。現代医学の知恵を得た多くの方々が親身になって病気の回復のために尽くしてくださいました。普段は何も起こらないのが自分の身体であると信じていますから、健康が当たり前と思っていました。いざ、身体が壊れると自分では何も出来ませんでした。
この時「医学」という賜物を持った医師がいました。
ただ助かりたいばかりで藁をも掴む思いに陥り、あれが良い、と言えばそれにすがり、これもいいと言われると、これも頼りにしたくなります。
私どもは懸命に病と取り組んでくださった医師に感謝し、その医学に全面的に信頼して頼る事が出来ました。病気は現代医学の発達で直すことが出来ます。もちろん、直すことが出来ない病もあります。
医学、という神様が与えてくれた大きな恩恵にあづかることによって幸いを得る事が出来ます。
医学を志す方が全てイエス様の信仰を持っているわけではありません。しかし、全ての医師から、
その持ち場に於いて、人の命を救おうとする懸命なプロフェッショナルな姿を見ることが出来ました。
「病気が治るように!」と皆さんが祈って下さったおかげで、神様への服従と信仰を持つ兄弟姉妹との絆を得る事が出来ました。自分の心の弱さを知る事も出来ました。健康のありがたさを教えられ、いつしか健康を取り戻したとき、前よりも心が強くなり、人に優しくなり、他人の痛みがわかる人間に生まれ変わりたいと思いました。祈っても、祈っても治らない事もあるでしょう。
時には神様への不信感さえ持ち、心がズタズタになる事もあるのではないでしょうか。
しかし、いつしか健康を取り戻せた時、イエス様の奇跡の業を頂き、魂の救いを体験する事が証明された、と思える日が必ず来ます。
今は、聖書からの言葉、一つ一つから直接私たちに奇跡を与えて下さっていることを確信できます。
魂の救いは今も、これからも、イエス・キリストの御言葉から示され続けて行くことでしょう。
イエス・キリストの奇跡の業の陰には魂の救いという大きな計画が有りました。
私は自分の過ぎ去った日々を振り返ってみる時、多くの奇跡によって守られ、導かれていることに気づかされます。
ラジオをお聴きの皆さんも、人生の節目、節目で味わった事実を思い出してみる時、あのことも、
この事も、奇跡の業だったことが数えてみると二つ、三つとあるのではないでしょうか?
その時、正に神様はあなたに魂の救いを与えて下さっていたのです。
イエス・キリストに従う生活が最も希望があり、心の奥深くに魂の救いを宿らせて下さいます。
どうぞ、伊丹教会の扉を開いてください。礼拝説教から魂の救いという奇跡を得て下さい。
あなたと出会える日を心からお待ちしています。