中途半端はイヤ!

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聖書の言葉

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

新約聖書 マタイによる福音書 16章13~15節

藤井真によるメッセージ

私は今年(2019年)の2月から大阪の吹田市にあります千里山教会の牧師として働きを始めました。赴任して間もない頃、82歳になります女性の病床洗礼に立ち会うことになったのです。病のため、神様のもとに召される時が近づいていました。その前にどうしても、洗礼を受けて、クリスチャンになりたいと願われました。それで彼女の病室で洗礼式を執り行ったのです。

ご家族の方がクリスチャンでいうこともありまして、これまで幾度も教会の礼拝に出席されていました。教会にも好感を持ち、自分の葬儀の時には、ぜひキリスト教式で行いたいと願っておられたのです。でも、なかなかイエス様を「救い主」と受け入れるまでには至りませんでした。しかし、人生の最後に洗礼を受けたいという思いが与えられたのです。

なぜ、洗礼を受ける決意が与えられたのでしょうか。ご家族の話によりますと、「中途半端」で終わりたくないということをよくおっしゃっていたというのです。「中途半端」という思いが彼女の心の中にずっとあったのです。そして、いよいよ死が迫って来た時に、「あなたは本当にこのままでいいのか?」「中途半端なままで、地上の人生を終えて本当にいいのか?」そのような声を聞いたのだと思います。それは、自分で自分に問い掛ける言葉というよりも、神様からの言葉として、聞いたのではないでしょうか。自分に迫って来る神様の言葉は、決して脅迫とかそういうことではなくて、神様の愛の迫りとしてその言葉を聞いたのだと思います。「あなたはそれでいいのか?」

私たちもまた、神様を信じている、信じていないにかかわらず、自分が如何に中途半端な存在であるかということをよく知っています。「自分はこれでいいのだろうか?」というモヤモヤした思いをずっと引きずったまま、何年も過ごしてしまうことがあるのではないでしょか。その時に、「このままではいけない。やらずに後悔するよりも、やって後悔した方がいい」などと言って、思い切った行動に踏み出すことがあります。もちろん、そのような決断や勇気というものが必要な時が誰にだってあることでしょう。でも、見方を変えると、それは自己満足に過ぎないということにもなってしまいます。結局、最後は自分の好きなことをしたもの勝ちだということになってしまいます。

イエス・キリストは、弟子たちに一つのことを尋ねられました。「人々はわたしのことを何と言っているか?」弟子たちはすらすらと答えます。「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一人」。本当のことを言いますと、どの答えも正しくイエス・キリストのことを言い表せていません。けれども、主イエスにとって大した問題ではありませんでした。「誰もわたしのことを分かっていないね」と言って、怒り出したわけでもないのです。主イエスの関心は、次の問いにありました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」他の人が何て言おうが構わない。問題は、「あなたがたは、わたしのことを何と言うのか?」たいへん強い迫りを主イエスの言葉の中に、弟子たちは感じ取ったのだと思います。

この主イエスの問いに、ペトロという弟子は、「あなたはメシア、生ける神の子です(イエス様、あなたは私の救い主です)。」と正しく答えました。主イエスはたいへんお喜びになり、この信仰の告白へと導いてくださった父なる神様をほめたたえました。洗礼を受ける決意が与えられるというのも、自己満足のためではなく、周りの人を安心させるためでもなく、結局のところ、神様と自分との一対一の関係の中でなされるものです。「あなたはわたしのことを何と言うのか?」「わたしを信じなくて本当にいいのか?」この問いに、「イエス様、あなたは私の救い主です」と答えるのです。

さて、洗礼を受け、クリスチャンになった彼女は、神様のために、教会のために色んなことをしたいと願われました。しかし、それらの思いが実現することなく、洗礼を受けてから一週間後に天に召されたのです。夢が夢で終わってしまう。志半ばにして、地上を去ってしまう。いったいこれはどういうことなのでしょうか。「虚しい」ということなのでしょうか。「儚い」ということなのでしょうか。それこそ、彼女が「一番嫌だ」と言っていた、「中途半端」ということなのでしょうか。

私は決してそうでないと思います。なぜなら、イエス・キリストが私の救い主であるということは、死に勝利したいのちに、今既に生かされていることを信じることでもあるからです。今も、そして永遠に、主イエスのいのちに包まれて生きることができる。これがクリスチャンの幸いです。夢や願いが実現しないまま、神様のもとに帰って行ったとしても、それは、決して、中途半端ということではないのです。「わたしは道であり、命である」(ヨハネ14:6)とおっしゃってくださった主イエスのいのちの道を、一筋の心で最後まで生き抜くことができる。本当に幸いなことだと思います。

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