義の太陽が昇る

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聖書の言葉

しかしわが名を恐れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼には癒す力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。

旧約聖書 マラキ書 3章20節

禰津省一によるメッセージ

今朝は、旧約聖書の預言書の中からマラキ書と言う書物を取り上げます。旧約聖書の終わりの方には、哀歌も含め、合わせて17巻の預言書が収められています。イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書という有名な四大預言書に続いて12の小さな預言書があります。12の小預言書のその最後の書がマラキ書です。またここで旧約聖書全体が閉じられるという意味で、旧約聖書全体の最後の書でもあります。

マラキ書が閉じられた後、イスラエルには約400年間、預言者が現れませんでした。旧約と新約の間の空白の400年と呼ばれます。預言者マラキの後、400年が経ち、久しぶりに神様が送られた預言者こそ新約聖書の初めに記されている洗礼者ヨハネです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、いずれも、洗礼者ヨハネについて、マラキ書3章1節のみ言葉を引用します。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」。この人はラクダの毛衣を身にまとい、イナゴと野蜜を食べ、荒れ野にいて、人々に悔い改めを求める神の言葉を語りました。まさしく旧約的な預言者です。そして多くの預言者の中でただ一人洗礼者ヨハネだけが救い主イエス・キリストに直にお会いすることが出来きました。

旧約聖書の預言者たちに共通していることは、人々の腐敗と不信仰を神の名によって警告し、悔い改めて神様に立ち帰れ、神はあなた方に救いを与えると告げ知らせることです。彼らは、現代の日本のような国、つまり天地万物の創造主である神様をよく知らない人々に語ったのではありません。そうではなく神様に選ばれ、恵みを受け、救いの約束を与えられた神の民イスラエルに向かって、もう一度神に立ち帰れと語りました。マラキは、一般の人々の不信仰を告発する以上に旧約時代の宗教者であるエルサレム神殿の祭司たちの腐敗を告発します。彼らは人々に神を教え、神の奉仕をしながら真実の霊性を失っていたからです。預言者マラキは祭司たちに神の言葉を告げました。しかし、祭司たちは「我々はどのようにして神様、あなたの御名を軽んじましたか」と答えました。そこでマラキは、神は、彼らが盗んだ動物や病気の動物などを恥ずかしげもなく捧げていることや、教えによって人々を躓かせていること、また人々を偏り見ていることを怒っておられると告げました。そして悔い改めなければ、神は祭司たちに与えられた祝福を呪いに変え、彼らを裁くと断言しました。

預言者マラキが語った印象深い言葉があります。「あなたたちは自分の語る言葉によって主を疲れさせている」。

マラキ書は、宗教者自身の堕落や腐敗を厳しく問います。預言者マラキの言葉は、教会の牧師たちや神父たちこそ聞くべき言葉かもしれません。祭司たちをはじめすべての人が真実にささげものを捧げるなら、神は天の窓を開いて祝福を限りなく注ぐとも告げました。そしてマラキが最後に告げたことは、すべての人が裁かれる終わりの日、神の審判の日が来るという預言でした。「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行うものは、すべてわらのようになる」

だからこそ、今、悔い改めて神に立ち返るようにとマラキは警告します。そして言いました。「わが名を恐れ敬うものには義の太陽が昇る。その翼には癒す力がある」

マラキが去って、400年後、洗礼者ヨハネが救い主の道備えをするものとして現われました。ヨハネは、イエス・キリストに洗礼の水を注ぎました。マタイによる福音書3章には、渋るヨハネに、イエスは「今は受けさせてもらいたい」と願ったと記されています。主イエスの洗礼のとき聖霊が鳩のようにイエスの上に降りました。神が天からこう告げました。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの」

イエス・キリストは、マラキ書が預言した義の太陽です。太陽の周りには輝く光がさんさんと輝いています。世の光であるイエス・キリストには翼があり、どこにでも飛びゆくことが出来ます。その翼は人々をいやす力を持っています。旧約聖書最後の預言者マラキの預言は、イエス・キリストにおいて現実となりました。終わりの日が始まっています。すべてが終わる日、最後の最後の時まで、すべての人はイエスキリストの救いへと招かれています。

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