キリスト入門①

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聖書の言葉

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

新約聖書 マタイによる福音書 7章13,14節

藤井真によるメッセージ

私たちの人生は決断や選択の連続です。意識する、しないにかかわらず、人はどこかで、何かを選び取りながら、その道を歩んでいるのではないでしょうか。今日は何を食べようかな?ということから、自分の進路や将来のこと、結婚相手のことまで、「本当にこれでいいのかな?」というふうに、少し不安になりながらも、「よし、これに決めた」と言って、自分が選んだ道を歩んでいくのです。

「狭い門から入りなさい」という主イエスのお言葉を読みしました。もしかしたら、教会に行ったことのない方でも、どこかで聞いたことがあるという方がおられるかもしれません。特に、受験シーズンになるとよく耳にします。偏差値が高いけれども、人気があって、たくさんの人がどっとその学校の門に押し寄せて来ます。でも、その学校に入学できるのはごく僅かです。まさに狭き門なのです。狭き門に入るには相当の努力と苦労が必要です。楽をしていては幸せになることはできないのです。

また、狭き門に通じる「道」も細いのだと、主イエスはおっしゃいます。しかし、主イエスは細い道を歩いて、狭き門から入るようにと命じておられます。私たちの目の前に、細い道と広い道が二手に別れています。あるいは、険しい道となだらかな道が二手に別れているのです。さあ、どちらの道を選べばよいのでしょうか。多くの人たちの経験からして、どうも細い道、険しい道を選んだ方が良いみたいです。たくさん苦労して、たくさん時間を掛けた方が、結果として、楽な道を選んだ人よりも遥かによいものが得られるということが、実際にあるのです。私もそのことを否定するわけではありません。何の努力や苦労もなしに、手に入れたいものを手に入れることはできません。試練や忍耐を経験することは辛いことですが、それを乗り越えて、やっとのことで手に入れることができた時の喜びというのは格別なものがあります。

しかし、聖書が語る「狭き門」というのは、どうもそういうことではないようなのです。命に通じる狭き門を、見出す者はほとんどいないのだと言うのです。たくさんの受験生たちが、押し寄せてくるような、誰にでも知られている有名な門ではないということです。

「狭い門から入りなさい」と主イエスは命令しながら、同時にそこで招いておられます。「あなたも神様の救いを受け入れてほしい」と願っておられるのです。「しかし、その割りには、イエス様、どうも厳し過ぎる言葉ではありませんか?」と思ってしまいます。門も狭いし、道も細いし、見つけることすら困難。これはほとんど絶望的であるとさえ言えます。でも、キリスト教の教えに共感することもたくさんあるし、教会の人たちも暖かいし、まぁ深入りすることなく、教会の人たちと仲良く楽しくやっていこうという方もおられるかもしれません。でも、主イエスが本当に願っておられることは、そういうことではありません。

また、「狭い門から入りなさい」という言葉は、まだ神様を信じていない人への招きの言葉ですが、既に主イエスを「私たちの救い主」と告白し、信じているクリスチャンに向けて語られている言葉でもあります。「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」と主イエスは、おっしゃいました。「狭い」というのは、押しつぶされているということです。そこから、苦難や迫害を意味する言葉にもなりました。

聖書に記されているイエス・キリストの教えは、「なるほどそうだったのか!」と目が開かれることがあります。でも、今日の主イエスの言葉のように、綺麗な言葉かもしれないけれども、本当にその道を生きることは困難だ。だから、せめて自分を美しく飾る言葉として、心の引き出しの奥にしまっておこうと思うのです。

でも、主イエスは、そういうかたちで自分を綺麗にすることはできないとおっしゃいます。例えば、「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)という主イエスの言葉に生きることは、まさに狭き門を入り、細い道を歩くようなものなのかもしれません。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)という聖書の言葉もあります。ああしてほしい、こうしてほしいということが私たちにはたくさんあります。突き詰めれば、「私を愛してほしい」ということかもしれません。「でも、その愛をまずあなたが誰かに与えなさい」と主イエスはおっしゃるのです。しかし、なかなかそのことが上手くできません。愛に飢え、愛を欲している人が目の前にいるのに、愛を与えるどころか怒りや憎しみや悲しみを生み出してしまうのです。私たちはそのように自分ではどうすることもできない悲しみを持っています。

人間は、心の貧しい存在であり(マタイ5:3)、深い悲しみを知っています(マタイ5:4)。何か大きなことを成し遂げた時、広い道を自分一人、胸を張って堂々と歩いている。そんな快感に酔いしれてしまうことがあります。神などいなくても、自分一人でやり遂げたぞ!などと強気になることもあるかもしれません。そして、その時の喜びをいつまでも忘れることができないのです。でも、クリスチャンは、自らの貧しさを知り、悲しみを知る人間です。だから、神に頼って生きる他ない人間です。そして、そのような者を主イエスは「幸いだ」とおっしゃってくださいます。

主イエスは、「門をたたきなさい」(マタイ7:7)というふうにもおっしゃっています。そして、その門はたたけば、必ず開かれます。神様は、御自分の子どもである私たちに良いものを与え、祝福で満たしてくださいます。そのための門であり、道なのです。

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