力を捨てよ

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聖書の言葉

「力を捨てよ、知れ

わたしは神。

国々にあがめられ、この地であがめられる。」

旧約聖書 詩編 46編11節

常石召一によるメッセージ

2018年9月に、岐阜県の関市に行ってきました。そこは昨年7月の豪雨で、川が氾濫し家屋が浸水した所です。被災直後は多くのボランティアの方々が現地に入りました。それから2か月して大分落ち着いたのだろうと思っていたのですが、床下に入った泥に困っている家がまだまだ沢山あったのです。そのため現地の教会が泥を出す活動している、ことを知りました。それで行ってきたのです。私は生まれて始めて、床下に潜って手で泥をかき出すということをしました。その際に、こういうアドバイスを受けていました。「初めは床下でじっとしておくこと、そうしたら慣れて来るから」。その通りにすると狭い暗闇でも意外と大丈夫だったのですが、年を重ねて体が硬くなっているなと感じました。一緒に潜った若い方々は体が柔らく、自由に床下を動けます。普段から身体を柔らかくしておかないといけないなと反省しつつ作業を続けましたが、私なりに役立っているという思いがしました。また床下で何人もの人と連係プレーをするのは、一体感があってとても楽しく感じられました。しかしつなぎを着て厳重なマスクをしたままですから、とても汗をかきます。段々と体力が消耗して来ました。

大分疲れているな、もう少ししたら休憩しないとまずいな、と思いながらも、もう少し、あの角までは続けようとしまいた。そこで急に息苦しくなったのです。すこし横になっていたら回復するかなと思ったのですが、苦しさは収まりません。

その時私は思いました。泥出しをしにわざわざ大阪から来たのに、ここで一人だけ休憩して外に出る訳にはいかないだろう。しかも私は牧師です。「牧師のくせに情けない」、そんな内なる声が聞こえてきました。

けれども結局「無理をして周りに迷惑をかけるようなことは止めよう。つまらないプライドは捨てよう」と思いなおして作業を中断しました。やめて良かったと思います。床下に潜る以外にもいくらでもやることはあったのです。

私たち一人一人には、今日しなければならないことがあります。仕事をしなければならない方もおられるでしょう、普段の疲れをとってリフレッシュしなければならない方もおられるでしょう、家族のために、将来のためにしなければならないことがあるでしょう。その中で、私たちには限界があるということを覚えておく必要があると思います。体力の限界、能力の限界、気力の限界があるのです。確かに私たちは、自分で勝手に限界を設けてしまう所があります。成長するためには限界を突破しようと試みることも必要でしょう。しかし私たちには厳然として人としての限界というものがあるのです。

「人間の可能性は無限だ」と言われることがありますけれども、それは本当なのでしょうか。誰も永遠に働き続けることはできません、永遠に生き続けることも出来ません。私たちは様々な面で越えられない制約があるのです。可能性は無限だというのは、人の自尊心をくすぐりはしますが、人間としての分を弁えさせないようにする、ある意味で危ない言葉ではないかと私は思います。

聖書の神さまは私たちに何とおっしゃるのでしょうか。「力を捨てよ」と言うのです。「何でも自分でしなければならない」、そういう力を抜いたらよいと言うのです。これは、「何にもしなくてもよい」ということではありません。私たちは懸命に努力しなければならないことがあります。私たち一人一人には、それぞれに果たすべき役割が与えられています。

「力を捨てよ」とおっしゃる神さまは、世界の全てをお造りになった神さまです、そして私たち一人ひとりを愛すべき者としてお造りになった神さまです。それだけではなくて、私たちが余計な力を抜くことが出来るようにして下さる、神さまなのです。

三位一体の父なる神さまは御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。それは、私たちの人間存在にとって最も根源的な問題を解決するためです。私たちがたとえ人生で失敗しても、大きな過ちを犯したとしても、イエスさまによって天国に行くことが可能になるためです。たとえ私たちがこの世で未解決のまま残してしまう問題があったとしても、神さまご自身が解決して下さるのです。このことを私たちが信じることが出来れば、不必要な心配をせずに済むのです。

私たちは何でも自分の力でしなければならないと肩に力が入っているのではないでしょうか。その力を抜くために、神さまに信頼することの幸いを知るために、是非この番組を聞き続けてくださいますように。

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