大原美術館物語

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聖書の言葉

「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

新約聖書 使徒言行録 20章35節

吉田実によるメッセージ

私は先日、結婚記念日のお祝いも兼ねまして、妻と一緒に倉敷の大原美術館に行ってまいりました。大原美術館を訪れるのは今回で3回目なのですけれども、江戸時代の風情を今でも残す白壁の街を川沿いに歩いてゆきますと、ギリシャ神殿のような立派な建物が見えてまいります。それが大原美術館です。大原美術館は西洋美術を公開展示する日本で最初の私設美術館として1930年に設立されましたが、それは地元の実業家でありました大原孫三郎と、岡山県出身の洋画家児島虎次郎、そして岡山孤児院を創設した「児童福祉の父」とも呼ばれる石井十次。この3人の男たちの出会いによって生まれた美術館なのです。

大原孫三郎は倉敷市の大地主で倉敷紡績を営む大原幸四郎の三男として生まれました。二人のお兄さんが相次いで亡くなったために孫三郎が大原家の跡継ぎとなるのですけれども、東京専門学校(今の早稲田大学)に入学しました孫三郎はほとんど講義には顔を出さず、悪友たちと放蕩三昧の挙句、1万5千円もの借金を抱えてしまいます。今の金額で言えば1億円にものぼるそうです。それを聞いてかんかんに怒りました父親は、学校を中退させて彼を倉敷に連れ戻し、謹慎生活を送らせます。そしてその謹慎中に、孫三郎はキリスト者の石井十次と出会うのです。石井十次は当時すでに岡山孤児院を設立し、多くの孤児たちの世話をしておりまして、その資金を募るために各地で講演活動をしていたのです。その講演を聞いて感銘を受けた大原孫三郎は、この石井十次と親しく交わるうちに大きな感化を受け、やがてイエス・キリストと出会い、自らも洗礼を受けてキリスト者となります。そして聖書の教えに基づき「事業で得た利益は、広く社会に還元しなければならない」と考えまして、石井十次が経営する岡山孤児院を全面的に支援し始めます。また、倉敷紡績に入社した孫三郎は、工員が初等教育すら受けていないことに驚き、やがて工場内に尋常小学校を設立します。また工場で働く人々やその家族の健康を守るためには病院が必要だと考えまして、それもやがて実現いたします。また、学費がないために勉強したくても出来ない若者たちを応援するために大原奨学会を設立しますが、その奨学生となったのが、東京美術学校(現在の東京芸大)に入学したばかりの、児島寅次郎だったのです。

児島虎次郎は大原孫三郎より一つ年下でしたが、孫三郎は虎次郎の誠実な人柄にほれ込み、彼が奨学生となることを認めます。それ以来二人は、ただの画家とパトロンという関係を超えた強い友情で結ばれるのです。奨学金を得た虎次郎は熱心に学びます。そして当時、青木繁や熊谷守一など、やがて日本の美術史に名を連ねる秀才たちが在籍する洋画学科の中で、虎次郎は優秀な成績を修めて2度の飛び級によってわずか2年で美術学校を卒業し、孫三郎の奨めでヨーロッパにわたり、フランスのパリで学びます。そして後にベルギーのゲントに移りまして、現地のアカデミーに学び、首席で卒業いたします。そして虎次郎は、ヨーロッパのすぐれた作品を収集することを孫三郎に勧めるのです。それは個人的な願いではなくて、日本の芸術界がヨーロッパの優れた作品から学ぶためであり、それはひいては日本の多くの人々の喜びにもつながることだという確信があったからです。「事業で得た富は、広く社会に貢献するために用いるべきだ」という確信をもって様々な社会事業にも取り組んでいた孫三郎は、熟慮の末にこの虎次郎の申し出を受け入れます。そして虎次郎は優れた鑑識眼で作品を見極め、マネ、モネ、セザンヌ、ドガ、ロートレック、ゴーギャン、ルオー、ピカソなどの名作を、そして何よりもあのエル・グレコの名作「受胎告知」を、日本にもたらしたのです。私は改めてその名作の数々を見ながら、一つ間違えばただの穀つぶしの放蕩息子で終わっていたかもしれない一人のお金持ちのボンボンが、イエス・キリストと出会った時に、「受けるよりは与える方が幸いである」という価値観の大転換を経験してしまった。その後の物語は、なんと豊かで美しいことかと思わされました。そしてそれは大金持ちの息子だからできたのだということではなくて、元をたどれば貧しい医学生だった石井十次が一人の孤児を預かり育てようと決心したところから始まった物語なのですから、それは私たちからも始まる。イエス・キリストの御言葉によって「奪い合う」のではなく「分かち合う」喜びに目覚めるなら、そんな私たちからも私たちなりの仕方で、豊かで美しい、愛の物語が始まるのです。

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