聖書の言葉
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
新約聖書 ルカによる福音書 18章13節
藤井真によるメッセージ
私たちは、生まれた時から、色んな人たちに囲まれながら生きています。家には親や子ども、兄弟がいます。学校には、友達や先生がいます。職場には、同僚や上司、部下がいることでしょう。また、人と共に生きるということは、それだけ、多くの人たちからの視線を受けて生きるということでもあります。そして、周りが自分を見るそのまなざしというものは、いつも良いものばかりとは限りません。時に、厳しく冷たいものでもあります。「他人の評価なんか気にするものか」と言って、部屋に閉じこり耳を塞いでいたとしても、自分について噂する声が不思議なことに聞こえてくるものです。また、私たちは、人にどう見られているかということだけではなく、周りの人をどのように見、どう評価するかということについても、大きな関心があるのではないでしょうか。
人間は、ある意味とても単純なところがありまして、周りから良い評価をしてもらえれば嬉しくなりますし、逆に悪い評価をされると不機嫌になります。そして、良い評価を得るためにはたいへんな努力や忍耐というものが必要な場合があるのです。その努力が実を結べば良いのですが、自分が思うようにいかないということもよくあるのだと思います。でも、そのような努力をするまでもなく、自分を高める方法があるのです。それが人を見下すということです。「私はあのような人間でない」とひとこと言えば、いや、心の中でそのように思って、その人と距離を取って生きれば、もうそれで自分を高めることができるのです。でも、そういう生き方を続けていて本当にいいのだろうか?どこか間違っているのではないだろうか?そう思いながら、自分ではどうすることもできずに、ここまで生きてきたという人は少なくないと思います。
主イエス・キリストは、ある時、一つの譬え話を語ってくださいました。そこに登場するのは、「ファリサイ派」と呼ばれる人です。「ファリサイ派」、それは自他共に認める立派な信仰者でした。彼が、神殿で次のような祈りを捧げていたというのです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11〜12)「私はあのような人間ではありません」という否定の言葉を幾度も繰り返します。そして、「私は、他の人たちとは違って、このようなことをちゃんとすることができる立派な人間です」と自分を肯定する言葉を重ねるのです。「自分はいったいどのような人間なのか?」ファリサイ派のこの人は、他人と比べることによって、自分の姿を見出しました。他人を見下すことによって、私が如何に立派で、如何に尊い存在であるかを明らかにしようとしました。
一方、もう一人の人が祈りを捧げるために神殿に上ってきます。それは、「徴税人」と呼ばれる人でした。同朋のユダヤ人から税金を集める仕事をしていました。しかも、バックにローマ帝国がいることをいいことに、余分に人々から税金を徴収し、その差額を自分の懐に入れていたのです。「罪人」といえば、誰もがまず徴税人のことを思い浮かべました。「お前は罪人の中の罪人。そんな生き方をしていて恥ずかしくないのか」という人々の冷たい声と視線を感じながら、徴税人は生きていたのでしょう。周りの声をいちいち気にしていたら生きていけないと思って、我が道を突き進んでいたのかもしれません。でも、ある時、周りが自分をどう見ているか、あるいは、自分が自分をどう見ているかということよりも、もっと大きなまなざしが自分を包み込んでいることに気付かされました。それが神様のまなざしです。私はいつも神様の前で生きている存在であるということを知った時、如何に自分が罪深い存在であるかに気付かされました。徴税人は、胸を打ちながら祈るのです。神様だけを見つめて祈るのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」徴税人は、神様だけしか見つめていません。神様に見つめられている自分しか見ていません。そこに大きな恐れを抱きながら、でも、そこにしかない神様の赦しを信じて祈るのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください…」
主イエスは、譬え話をお語りになった後、「神様の救いにあずかったのはこの徴税人だ」とおっしゃいました。人は誰もが、「自分は尊い存在」だと信じて生きていきたいのだと思います。たとえ、何かを成し遂げることができなかったとしても、誤解を恐れずに言えば、たとえ、救いようのない罪を犯したとしても、「私は神様からいのちを与えられた尊い人間なのだ」と信じたいのです。でも、どこかでその尊さを自分で造り上げなければ納得できないようになりました。自分で造り上げることができないと判断したら、他人を見下すことによって、自分が少しでも高いところに立っているのだと思い込むようになりました。そのようにして生きている自分の姿が、本当は美しくないと分かっていながら、どうすることもできずにここまで生きてきました。
でも、神様はいつも待っていてくださいます。あなたを招いておられる神様のもとに行くことを。ファリサイ派であっても、徴税人であっても、神様は罪人である一人一人を愛しておられるからです。人にどう見られるか、人をどう見るか、そのことによって、一喜一憂する人生ではなく、神様のまなざしの中に立つ自分を見つめる時、人は本来の尊さに気付くことができる。そのことを、主イエスはここで告げていてくださるのです。