その愛はほんものですか1

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聖書の言葉

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 21章17節

藤井真によるメッセージ

私たちは、自分の人生を深く見つめ直すことがあります。岐路に立たされた時、病を負った時、試練に襲われた時など、人それぞれに自分のこれまでの歩みを振り返ることがあるのだと思います。そして、自分の生き方はこれでよかったのだろうか。いや、間違っていたのではないか。このまま、ずっとこのような人生で、一生を終えてしまって本当にいいのだろうか。もしも、自分の人生をやり直すことができたのならば、やり直してみたい。でも、やり直すとしても、どうしたらいいのだろうか…。そのように、自分の心の中から色んな声が聞こえてくるのです。

以前、ある牧師がこんな話をしてくださいました。自分は学生時代、テストでカンニングをよくしていたのだというのです。努力をせずに、テストに挑み、カンニングをして合格点をもらっていたのです。最初は、何も思っていなかったようです。誰にもバレなければ、すべては上手く行くのだと思っていたようです。しかし、カンニングを繰り返しているうちに、段々と自分の心が苦しくなってきたというのです。「お前はこんな生き方をしていて本当にいいのか?」「自分を偽りながら、人を欺きながら生き続けていて、本当にそれでいいのか?」問題は、勉強のための努力を一所懸命するか、しないかということではありません。与えられているいのちを真実に、そして本当に真っ直ぐに生きているかということです。誤魔化しや偽りという色で、人生の日々を全部塗りつぶしてしまって、本当にそれで満足なのか?その人は自問自答を繰り返し、自らの深い罪に気付かされました。そして最後には、教会へ、イエス・キリストが与えてくださった救いの恵みの中へ導かれていったというのです。

私たちには色んな弱さがあります。しかし、その弱さを覆い隠すために、罪を重ねてしまうことがあるのです。自分を偽り、誤魔化しながら、その場をしのごうとします。上手く行けば、また同じ過ちを繰り返すのです。そして、気付いてみたら、もう随分と歳を重ねてしまっていたということがあるのではないでしょうか。「真面目に生きていても損をするだけだ」「ズル賢く生きていくことも、この世を生き抜く一つの知恵なのだ」「そうでもしないとやって行けないのだ」そう言って、開き直ろうとするのです。たとえ、自分がしていることが間違っていると分かっていたとしても、そのような自分の生き方を肯定する様々な言葉や言い訳を見つけ出そうとするのです。

でも思うのです。できるならば、与えられたいのちを、人生の日々を、真っ直ぐに、そして真実に生きていきたいのだと。それは何も真面目に努力して、大きな結果を残すことではありません。大きな結果を残せずに、落ち込んでしまうことがあります。努力しても決して克服することのできない弱さを抱えておられる方もきっとおられることでしょう。そもそも何かを成し遂げようという気力さえ湧いてこないという方もおられるかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、自分を誤魔化すことなく、生きていきたいと思うのです。それは、呻くような日々であるかもしれません。座り込んだままの日々が暫く続くかもしれません。しかし、それでもなお、私は与えられた自分の人生を誤魔化すことなく、真実に生きたのだと言うことができたならば、あるいは、他の誰かから「あなたは一所懸命よく生きたね」と言ってもらえれば、どれほど嬉しいことでしょうか。

十字架の上で死に、三日目に復活なさった主イエス・キリストは、弟子であるペトロという男に、「わたしを愛しているか」と問われました。しかも、三度も同じことを問われたのです。「愛する」という生き方こそ、人間として最も美しく、真実な生き方と言っても過言ではないでしょう。愛に偽りや汚れ、貧しさなどあり得えません。もし、そのようなものが混じり込んでいたとしたならば、それは愛の名に値しない別のものです。だから、ペトロは、かつて主イエスにこう言ったのです。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」(マタイによる福音書26章33節)。「主よ、…あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネによる福音書13章37節)。愛に真剣に、そして真実に生きようとする者に相応しい言葉です。しかし、このペトロの愛は、もろくも崩れ去りました。やがて、主イエスは人々に捕らえられ、裁判にかけられます。その時、近くにいた人たちから、「お前も、あのイエスの仲間だね?」と問われ、恐ろしくなって逃げ出してしまったのです。しかも、「わたしはイエスなど知らない」「わたしとイエスは何の関係もない」と三度も口にして…(ヨハネによる福音書18章15~18節、25~27節)。

復活した主イエスから、愛を三度問われた時、ペトロは悲しみを覚えました。ほんものの愛に生きることができなかったからです。「弱さ」という言葉では決して言い逃れすることのできない自分の「罪」が、この私の愛の中にはっきりと見えたからです。だからもう、主イエスを愛し、従っていく資格など、自分にはないと思いました。しかし、そのような私だけれども、主イエスの十字架に示された本当の愛と赦しの中を生きていきたいという思いが、確かに与えられていたのです。そのような葛藤の中から、「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と、少し変わった答え方をしました。自分の中にある決意や自信の上に、愛の根拠を置くのではありません。ほんものの愛に生きることができない私だけれども、主イエスはそのような私を愛していてくださる。そのために、主イエスは十字架に死に、復活してくださったのだ。この主イエスの真実の愛に、私の愛の根拠を置くのです。主イエスの愛に支えられて、この私も神様を愛し、隣人を愛する生き方へと踏み出していくことができる。ペトロは、この喜びを味わいながら、神様のために、またキリスト教会のために生涯を献げていくのです。

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