その愛はほんものですか2

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聖書の言葉

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

新約聖書 コリントの信徒への手紙一 13章4~7節

藤井真によるメッセージ

以前、ある牧師の講演を聞く機会がありました。その先生が働いておられる教会には、幼稚園が併設されていて、その園長の働きもなさっているようです。ですから、園児の保護者を前にしてお話をすることがよくあるというのです。そこでこんな話をするそうです。「ここにいる皆さんの95%は子育てに失敗します。」話をボッーと聞いていたお母さんやお父さんたちは、一瞬ビクッとします。そして、顔を上げて、園長先生の話に耳を傾けるというのです。

「皆さんは子育てに失敗します」という言葉は、なかなかすごい言葉だと思います。この放送をお聞きの皆様の中には、子どもが与えられている方も多いことでしょう。私の家庭にも3歳になる息子がいます。「あなたは子育てに失敗するね。」そう言われて、皆さんはどのような反応をなさるでしょうか。「私たちの家庭のことを何も知らない人に、そんなこと言われたくない」と怒り出す人もいるかもしれません。確かに、「あなたは子育てに失敗します」と言われると、まるで「あなたの子育ては間違っている」と否定されているように聞こえます。でも、私自身、この言葉を聞いて、怒りの感情は生まれませんでした。むしろドキッとしたのです。親になって、まだ3年しか経っていませんが、これまでの自分の子育ての仕方は、本当に正しかったのだろうか。息子に対する自分の愛は本当に正しいと言えるのだろうか。そう思って少し不安になったことを覚えています。

先週に引き続いて、「その愛はほんものですか」という題でお話をしています。「息子に対するあなたの愛はほんものか?」「娘に対するあなたの愛はほんものか?」そのように、神様から問われます。あるいは、自分で自分に問い掛けます。自信に満ちて「私の愛はほんものです」と答える人もいれば、自信なさげに「私の愛はほんものです」と答える人もいるでしょう。しかし、いずれにせよ、「私の愛はほんものです」と答える以外に、答えようがないのだと思います。もし、偽りの愛や間違った愛で、自分の子どもを育てたとするならば、その子はいったいどうなってしまうのでしょうか。想像することは決して難しいことではありません。

だから、自分の愛は間違っていないのだ。自分の子育ての仕方は正しいのだ。そう信じたいのです。そう信じて、日々、お母さんとして、お父さんとして、子どもに接しているのだと思います。そのために子育ての本をたくさん読む人もいるでしょう。お母さんたちが集まるサークルに参加する人もいるかもしれません。自分の親や友人に子育ての相談をする人もいることでしょう。そうやって、精一杯の愛情を注ぎます。子育てに時間を割きます。自分の好きなことをする時間はうんと減ります。色んなことが犠牲になります。しかし、そのことを誰も損したとは思わないはずです。たとえ愛に疲れたとしても、その疲れは、きっと嫌な疲れとして受け止めないはずです。なぜなら、その疲れは愛する喜びを知った疲れだからです。

しかし、そこまで愛情を注いでも、上手く行かないことがよくあるのです。要するに、親の願ったとおりに子どもが育ってくれないということです。子どもは、親の言うことをいつも素直に聞いてくれるわけではありません。聞いている振りをしているだけで、心の中では全然納得していないということがよくあるのです。誰に何を言われても、それがたとえ親であったとしても、絶対に譲ることができない自分の思いというものを、小さな子どもであっても持っています。その思いを否定すると、子どもは怒り出し、泣き出します。時にものすごく哀しげな表情をすることもあります。

私たち人間は、親であるなしにかかわらず、自分の思いどおりに行かないと、すぐに苛立ってしまいます。そして、自分を苛立たせた原因を突き止め、それをすぐに握りつぶそうとするのです。そこまでして、自分は正しかったのだ。自分の愛は、間違っていなかったのだと正当化しようとするのです。特に、親と子という関係に生きる時、どうしても親である自分の方が、子どもよりも正しいのだという思いが強くなります。子どもは、親の存在なしには、生きていくことはできません。だから、親である私の言うことを聞いて当然だ。私に刃向かうなんて、もってのほかだ。そんな思いが、自分の心のどこかで自然と芽生えてくるのです。

聖書は、「愛することは仕えること」だと、はっきりと語ります(ヨハネによる福音書13章)。愛することは仕えることであって、決して、支配することではありません。しかし、私たちは、愛という名のもとに、愛する相手を、如何に自分の思い通りにしたいと願っていることでしょうか。如何に自分の思いを相手に押し付けていることでしょうか。そのことによって、相手の人が悲しい思いをしているにもかかわらず、自分は間違っていなかったのだ。間違っているのは向こうの方なのだと言い張って、自らの愛や生き方をいつまでも省みようとはしないのです。相手を造り上げ、建て上げることのできない愛、相手を悲しみの底に突き落とし、そこでその人をひとりぼっちにさせてしまう愛を、果たしてほんものの愛と呼べるのでしょうか。

私は思います。自分の中にある愛は、ほんものか?偽りか?というよりも、自分の中に、そもそも愛があるのか?ないのか?そのことを問わずにはおれません。少なくとも、私は自信をもって、「私の中に愛はあります」とは言い切れません。もしあるとするならば、それは自分で造り出したものではなく、神様が与えてくださるものです。そこにしか愛に生きる望みはないと思います。

聴き分けのわるい私たちです。しかし、神様は、お前は失敗作だとはおっしゃいません。怒りの矛先を、私たちではなく、御自身の御子イエス・キリストに向けられました。そこに、キリストの十字架が立ちました。ここに愛があります。いつもここに立ち帰りたいと思います。こんな私だけれども、神様は私を愛してくださっている。この喜びから、共に生きる人を愛する生き方を始めていきたいと思います。

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