ヨナを追い求める神

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聖書の言葉

さて、主は巨大な魚(さかな)に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。

苦難の中で、わたしが叫ぶと

主は答えてくださった。

陰府の底から、助けを求めると

わたしの声を聞いてくださった。

旧約聖書 ヨナ書 2章1~3節

望月信によるメッセージ

旧約のヨナ書の二回目です。

荒れ狂う海に放り込まれて、ヨナは、「もはやこれまでだ」と思ったでしょう。けれども、主なる神の御業は終わりません。荒れ狂う海に放り込まれるとは、普通であるならば、もはや絶体絶命、一巻の終わりと言うべきでしょう。けれども、主の御手は、その海の中にまで及びます。実のところ、海に放り込むことを通して、主なる神は、逃げ出したヨナを捕らえようとされたのです。

主なる神は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられました。主なる神が命じるなら、海は荒れ狂い、魚はヨナを呑み込みます。主なる神は、天地の造り主にして、すべてのものをご支配しておられる万物の主にほかなりません。巨大な魚がいったいどんな種類の魚であったのかは分かりません。魚がヨナを呑み込むことが不思議であるならば、その魚のおなかの中でヨナが無事であることも不思議です。これは、決して自然の出来事ではなく、自然を用いて主なる神ご自身が成し遂げられた、神のくすしき御業にほかなりません。

それゆえ、大きな魚にのみこまれ、魚のおなかの中で、ヨナは自分が守られていることに気づきました。荒れ狂う海に放り込まれてもはや命がない、のではない。真実には守られました。巨大な魚に呑み込まれてもはや命がない、のでもない。真実には、やはり守られたのです。そして、これがヨナの新しい人生の始まりとなりました。ヨナは思ったでしょう。自分は主から逃れて船に乗り、嵐に巻き込まれ、ついには海に放り込まれた。主なる神は、その愚かな自分を追い求めて、守っていてくださる。嵐も巨大な魚も、ヨナを求める主なる神の愛の御業にほかならない。

ヨナは、この神の恵みの御業によって、神に屈服するものとされました。神がひとたび愛されたなら、その愛はどこまでも貫かれます。私たちは、その神の愛に支えられて、信仰者として立たせられるのみなのです。この点で、信仰とは徹底して神の愛と憐れみの御業であり、その愛と憐れみに屈服させられることが大切です。ヨナはこのとき、自分に注がれている神の恵みを知り、神の御前にひれ伏しました。ヨナがこれまで預言者として務めを果たすことができたのも、決してヨナ自身が立派だったからではなく、神の憐れみにほかなりません。実に、ヨナにとって、このことを悟ることが必要とされました。自分の思いを打ち砕かれてこそ、異邦人をも愛する神の愛に心を重ね合わせることができるのです。これは、ヨナだけでありません。私たちも、自分の思いを打ち砕かれてこそ、主によく仕えるものとして整えられ、用いられるようになることができます。

ヨナは、魚のおなかの中で、主なる神にひれ伏し、祈ることへと導かれました。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」。巨大な魚のおなかの中で、ただ神に依り頼むほかない状況に置かれて、ヨナは真実に自分の無力を悟り、いわば裸になって、主なる神を呼び求める者とされました。本当の意味で主なる神の御前にひれ伏すとは、このヨナのように、すべてを奪われでもしないとできないことなのでしょう。すなわち、それほど私たちはかたくなな存在なのです。その意味で、神に打たれ、砕かれることは、真実には幸いなことです。苦しめられて、自分の無力を認めざるを得ない。そこでこそ、私たちは真実に主なる神を呼び求めることができます。そして、主なる神は、苦しみの中で叫ぶ私たちの声を聞いてくださるお方です。

ヨナはこうして祈りました。「わたしは思った、あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく」。「しかし、わが神、主よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった」。「わたしは感謝の声を上げ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある」。

二つのことを心に留めましょう。一つは、信仰者は苦しみを主による訓練として受け止めることができます。「苦しみにあったことは、わたしにとって幸せでした。わたしはそれで、あなたのおきてを学びました」。詩編119編71節、新改訳聖書の言葉です。信仰者にとって、苦しみは苦しみに終わりません。苦しみにおいて神と出会うことができるからです。とりわけ、今日、私たちは、十字架をも耐え忍ばれた救い主イエス・キリストを呼び求めることができます。

もう一つは、神の御前にひれ伏し、神に屈服することが福音の器としてよく用いられるために、欠かせません。ヨナには、ニネベはイスラエルの敵国だという思いがあり、神の御心を受け入れる妨げとなっていました。私たちにも、自分の思いがあってかたくなになっていることがあるのではないでしょうか。その思いが打ち砕かれ、神の愛と憐れみの前にひれ伏すことが求められています。主なる神は、そのような、神の御前にひれ伏し、自らをささげて生きる者を求めておられます。

主なる神は、苦しみの中で主を呼び求めて祈るヨナを喜び、魚にヨナを吐き出すよう命じられました。魚はヨナを陸地に吐き出しました。こうして主は、ご自身の預言者として、ヨナをあらためて立たせておられます。

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