マルテの孤独に

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聖書の言葉

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

新約聖書 マルコによる福音書 15章34節

宇野元によるメッセージ

今からおよそ100年前、詩人リルケは、パリの街を歩き回る青年の姿を描きました。『マルテの手記』。大都市の喧騒。羊飼いのいない群れのような人々。その中にある孤独。今、私の手元にあります、望月市恵訳のものから、何箇所か読ませていただきます。

人々は生きるためにこの都会へ集まって来るのだが、ぼくにはそれが、ここで死ぬためのように考えられる。

窓をあけたままで眠らなければならないのが閉口である。電車がベルを鳴らしてごうごうと部屋を通りぬける。自動車がぼくの寝ている上を走り去る。どこかでドアが大きな音でしまる。どこかで窓ガラスが割れて落ちる。……誰かが叫んでいる。人々が走ってゆき、足音が入り乱れる。犬が吠える。

ぼくは恐ろしくてたまらない。恐怖を感じたら、それにたいし手段を講じなくてはならない。この都会で病気にでもなったら、たまらないだろう。

おかしなことである。ぼくはこの小さな部屋にすわって、今年28歳になるが、誰もぼくの存在を知らないのだ。ぼくはこうして生きているが、存在しないも同然である。

「まだ絶望ではない」と大きな声で言ってみるのはいいことである。もう一度「まだ絶望ではない」と。しかし、それが役にたつだろうか。

作品と作者の関係は、なかなか複雑で、一筋縄ではいきません。青年マルテには、実在のモデルがいたことが知られています。しかし、マルテと作者リルケの関係は強く、ほとんど溶け合っているように思われます。

同じ時代を生きた、フランスの芸術家ジャン・コクトーが、この作品を書いた頃のリルケについて、こんなことを書いているそうです。その頃、二人はたまたま同じアパートに住んでいた。しかし、自分は若さにまかせて、派手な生活をしていた。ひっそりと暮らしていたリルケに気づくこともなかった。けれども毎晩、遅くまで、いつもアパートの隅の一つの窓にあかりがともっていた。後になって、それがリルケの部屋だったことを知ったと。

私は、マルテの中に、今の世界の中で私たちが感じているのと共通する、生きることの苦しさを感じます。街の、冷たい石の白い壁や、灰色の建物のあいだを歩き回る。よそから来た者が拒絶されているように。裏町の図書館で、すこしだけ息がつける……。今も、この日本に、いったいどれだけ多くのマルテがいることでしょう。マルテのようではなく、コクトーのような生き方を選びたいと思う人がいるでしょう。生きる苦しさを敏感に抱えながら、派手に生きるほうがいいと。けれども、実際にはそんなふうに生きられず、息を凝らすように片隅で過ごす。街角をほっつき歩く。あるときは、深い底にいるように。またあるときは、やみくもに通りを急いだり。「まだ絶望ではない。」そう心の中で叫んでみる。

そんな、マルテの孤独に、孤独なマルテたちのために、思いを超えた愛の証しが聖書に刻まれています。神。その存在を、マルテも、私たちも知り、信頼することができます。大きな神が小さな自分に目をとめている。その証が、イエス・キリストによって与えられています。それがけさのことばです。神は、イエス・キリストを深い孤独の中へ送られた。しかしそこでイエスは叫んだ。「なぜ一人にされるのですか」。深い孤独のなかに置かれた。けれども、神が見えない、神が不在であるかのような深い淵の中から、イエスは「なぜ」と問いかけています。このようなことは理解できない。なぜ?と。そして「わが神」!と、見えない方に呼びかけています。同じように、神が不在であるような現実の中で、神を捉えられない私たちと、神が境を接している、そして私たちを見てくれている――それを、イエスの叫びのうちに知ることができます。

新しい一週を始める前に、ご一緒に、イエスのミステリアスな言葉を心にとめたいと思います。現代の、灰色の世界に放り出されているかのような私たちは、確かな拠り所を見出すことができる。顧みられているのを知ることができる。その証し、約束、保証が与えられています。苦難の孤独を担われた、イエス・キリストのうちに。

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