生涯の日を正しく数える

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聖書の言葉

生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。

旧約聖書 詩編 90編12節

藤井真によるメッセージ

今日は7月1日です。昨日で1年の前半も終わり、今日から1年の後半の歩みが始まります。人それぞれに感じ方は違うかもしれませんが、多くの人が、「もう1年の半分が終わったのか。あっという間だったなあ」と感じているのかもしれません。時が流れるのは早いものです。私たちは、日々、様々なことに追われながら生きています。やらなければいけないことが、次から次へとやって来ます。しかし、時間が止まってくれるわけではありません。気付いてみたら、もう一日が終わろうとしています。そのようにして、一日が一週間に、一週間が一ヵ月に、一ヵ月が一年にというふうに、瞬く間に時が過ぎていたということがあるのではないでしょうか。

「あっという間だったなあ」という言葉は、ただ時間の流れる早さを意味しているだけではないでしょう。その背後には、私の歩みは本当にこれでよかったのだろうかという、どこか後悔に近い嘆きのような思いが込められているのかもしれません。人生の節目を迎え、過去を振り返る時、誇ることができる喜ばしい出来事を数えることができる人もいるかもしれませんが、それよりも、色んな失敗や過ちの方がずっと心に引っ掛かっているという人もおられることでしょう。また、人はそれぞれに色んな計画を立てます。今日はこれをやろう。今年はこれをやろう。私の人生において、このことをやり遂げようというふうに。けれども、立てた計画を変更せざるを得ない事態に直面することがあります。志半ばに挫折をし、夢を諦めざるを得ないこともあるでしょう。これまで追い求めていた自分とは違う自分になることを受け入れながらも、心のどこかで納得していない自分が居続けているのです。

また、自分が立てた計画通りに、私は人生を歩むことができた。やりたいこともたくさんやることができたし、十分に満足しているという人も、「死」という現実を前にした時、空しさや儚さ、あるいは、恐れに捕われる人もいることでしょう。色んなものを手に入れてきたけれども、死によって、それらがすべて吞み込まれてしまうならば、いったい私の人生とは何なのだろうかという深い問いを抱きながら生きている人もいるのではないでしょうか。あっという間に流れて行く時の中で、自分の思い通りに生きることができたにせよ、できなかったにせよ、なお残り続ける空しさや儚さといった思いが自分の心の中に確かに存在しているのです。

今朝は、詩編第90編にある御言葉をお読みしました。この詩を歌った詩人は言うのです。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。」生涯の日を正しく数えるのであって、決して、間違った仕方で数えるのではありません。つまり、私の人生は何をしても、結局は空しいとか、儚いのだと言って、嘆きながら日々を歩むのではないのです。確かに、そのような思いに捕われることもあるかもしれません。でも、そういうところで、詩人が続けて歌っているように、「知恵ある心を得ることができますように」と神様に祈るのです。空しさや儚さといった思いに、自分が押しつぶされそうになるまさにその時、「神様どうか知恵を与えてください。神様、あなたから与えられた知恵によって賢くなり、空しさに打ち勝つことができますように。そして生きる喜びを見出すことができますように。」

ところで、宗教改革者にマルティン・ルターという人がいます。ルターは、この詩編第90編をたいへん愛していました。晩年に7回にわたって大学でこの詩編から講義をし、その記録が小さな書物にまとめられています。ルターは、このように大胆に訳しています。「私たちが死ななければならないということをよく考えることを教えてください。私たちが知恵あるこころを得るために。」私たちの地上の生涯、その行き着く先は、「死」です。誰も死を避けて通ることはできません。死を前にした時、それこそ空しさを覚えたり、様々な恐怖に捕われることでしょう。とりわけ、この詩編の詩人は、自分の罪に苦しみ続けました。どれだけ忘れようとしても、隠し通そうとしても、神様は、その隠れている罪に光を照らし、その罪を暴き、裁かれます。神様の怒りを前にした時、私の存在は消え去ってしまうのだということに恐れを覚えました。死という絶対的な力の前にして、もはや私は一歩も前に進むことはできない。どれだけ自分の知恵を振り絞っても、生涯の日を正しく数えることなど到底できない。そのように、ただ嘆くしかない私たちです。

しかし、神様はその嘆きに応えくださいました。罪から解き放たれ、死を乗り越えて行くことのできる確かないのちに生きる知恵を、神様は私たちに授けてくださるのです。そして、ここに、救い主イエス・キリストの姿を見ることができます。イエス・キリストの十字架を通して、神様は「あなたの罪は赦されている」と告げてくださいます。そして、死に打ち勝つことのできるまことのいのちの中を、神様と共に進んで行くことができると、復活してくださったイエス・キリストは、私たちに語り掛けてくださるのです。

先程、宗教改革者マルティン・ルターのことについて少し触れましたが、ルターは本の中で、中世の時代から教会で歌われていた賛美歌を紹介しています。こういう歌です。

「生のさなかにあって、われわれは死の中にある。」

どんな祝福に満ちた人生を送っても、死の壁が私たちを四方から取り囲んでいると歌っているのです。けれども、ルターは、この賛美歌の歌詞を次のように書き換えました。

「死のさなかにあって、われわれは生の中にある。」

明日、死んでしまうかもしれない小さないのちであっても、私たちはキリストの甦りのいのちに確固として囲まれて生きているではないか。私たちが神様によって生かされているということは、まさにこのように歌いつつ歩むことではないかと言って、新しい言葉で歌い直すのです。

神様は、生涯の日を正しく数える生き方へと、今日も私たちを招いてくださいます。キリストのいのちが、私たちの日々の歩みを確かなものとしてくださるのです。

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