心のとびらを

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聖書の言葉

「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者がいれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

新約聖書 ヨハネの黙示録 3章19,20節

赤石めぐみによるメッセージ

心が解放されている人、心が広い人は、心がだれに対してもオープンで、だれもが接しやすい、と感じることでしょう。クリスチャンと呼ばれる人はみんなそうだ、と思われているかもしれませんが、少なくとも私は、常にそうであらねばならない立場にいながら、残念ながらいつもそうだとは言えません。赦せない思いにとらわれて、心の扉を固く閉じて、なにか自分を守ってしまうときがあります。クリスチャンでなくとも、「いい人間になりたい、と思っているのに、なかなかそうあれない」自分にふがいなさを感じられることがあるのではないでしょうか。

今日お読みした聖書の言葉によれば、イエス・キリストというお方は、「わたしはあなたの行いを知っている」とおっしゃって、その人の心の扉の前に立ち、戸をたたいておられる、というのです。皆さんは、イエスさまがどんなふうに扉をたたかれるか、その音を想像できますか?

わたしはこんなふうかなあ、と思っている賛美歌があります。聞いてみてください。

♪音楽

これはもう亡くなられた前田豊牧師の作詞、島塚光さん作曲の「心のとびらを」という曲です。長らくわたしはこの賛美歌の影響で、イエスさまは優しく扉をたたいておられる、と思っていました。こんなふうにたたかれたら、イエスさまにだったら心の戸を開けるかな、という気持ちになってきます。でも、とっても小さいので、気づかなくて、ずっとお待たせしてしまうかもしれないな、とも思います。

次にもう一つ。半年ほど前にわたしが初めて聴いたこの曲を聴いてみてください。

♪音楽

これはメシアン作曲の歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」の中で、旅する天使が修道院の扉をたたくときの音楽です。戸をたたいている天使はソプラノで優しく語りかけるのに、扉をたたく音が似つかわしくないほど男性的で盛大なので、驚きました。それで、黙示録のイエスさまの戸をたたく音も、実はこんなだったりして・・・と思ったのでした。

冒頭でお読みした黙示録の言葉によれば、イエスさまは「愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と言っておられました。だから、イエスさまは頑なになってしまったわたしに、「目を覚ませ!心を開いて悔い改めよ」という思いで心の戸をたたいておられるわけです。そう考えると、メシアンの音楽のようになにか決断を迫るような、これほど明確な仕方でたたいておられるのかもしれません。こんなふうに戸をたたかれているのだとしたら、ちゃんとお答えしなきゃ、という気持ちにさせられる気がするのです。

自分の罪のために心の扉を固く閉じて、自分を守ってしまうことが、わたしにはあります。けれどもイエスさまは、そういうわたしを懲らしめようと引きずり出すために戸をたたいておられるのではありません。わたしが開けたら、中に入って一緒に食事をする、とおっしゃいます。それは多分、命のパンである聖書の言葉をもっと与えてくださるためなのだろうと思います。なかなか飲み込めないわたしに、かみ砕いて教えてくださろうとしているのだろうと思います。成熟するために、こういうふうにイエスさまに育てられる必要がまだまだ、一生を終えるまで、あるのだろうと思います。

イエスさまは、今日、あなたの心の戸もたたいておられると思います。その音・その声が聞こえたなら、どうぞ教会にいらしてみてください。イエスさまが命のパンを用意して、あなたを礼拝の場に迎え入れて、一緒に食事をしてくださいます。

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