共に生きる信仰

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聖書の言葉

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

新約聖書 マタイによる福音書 9章9節

江戸浩三によるメッセージ

聖書にはマタイという人が良く出てきます。この人は人々から税金を取る仕事をしていました。そんなマタイがイエス様の弟子となり聖書を書くまでになったこの劇的な変化に至る信仰を通して「共に生きる信仰」を知ることが出来ました。マタイという人は、仕事柄お金は沢山集めましたが、友人はいませんでした。金では得られない人との温かさを失い、こころに安らぎを持っていませんでした。

ある日のこと、いつものように机に向かって仕事をしていると、突然イエスさまが入ってきた。そして一言、「わたしの弟子になりなさい」と言いました。マタイはビックリ仰天したことでしょう。思いがけないイエスさまの呼びかけにマタイはすぐに返事して、仕事も、家も何もかも捨ててイエスさまについて行きました。お金を集める仕事ではなく、人の魂を、心を集める、というものでした。しかし、このことをきっかけにして、あの有名な「マタイ福音書」を世に出すことになりました。

マタイはイエスさまと出会った喜びをみんなと祝いたかったのでしょう。さっそく仲間の人々を招き、食事をふるまいました。しかし、人々はショックでした。イエスさまは、なぜこんな男を選んだのか、と。当時、税金取り、とみんなから嫌われていたマタイに対しての本音の思いでした。

聖書が教えている「共に生きる」とうことは、イエスさまはあなたと共に生き、あなたはイエスさまと共に生きている、という事でした。そして、周りの人たちと共に生きるということを学ぶことができます。イエスさまは嫌われ者のマタイを弟子にし、その家で食事をされました。共に食事をするということは聖書ではいつも共に生きてくださるという意味を持っています。イエスさまは誰とでも共に生きることを願われたのです。

岩村昇という人が居りました。彼は日本キリスト海外医療協会からネパールに派遣されたお医者さんでした。こんなエピソードを知りました。

ある村で、一人の老女が倒れていました。一刻も早く入院の必要がありました。丁度、若い男が通りかかったので頼むと引き受けてくれました。彼は老女を担ぎ、三日間三つの山を越えて病院に運んでくれました。岩村さんは感激して労賃を倍にして差し出しましたが、受け取りません。

「俺は貧乏しているが金儲けをしようとこのおばあさんを運んだのではない。共に生きるためだ。生きるとは弱きものと分かち合う事だ。俺は若さと体力がある。体力のないおばあさんに長い旅路でほんの三日間おすそわけしただけだ」と言って立ち去りました。若者の服はボロボロではだしの足の裏から血の跡が地面に残っていたそうです。岩村さんはこの無名の人の言葉を胸に刻みました。この無名の若者は“おばあさんを運んだのは共に生きるためだ”と言いました。“生きるのは弱きものと分かち合うことだ。ともいいました。また、“ほんの三日間おすそわけしただけだ”と言いました。

イエスさまはさまざまな人を通して、無名の人を通して、人生の大切な真理を教えてくださいます。イエスさまは私たちと共に生きてくださった方です。そして、イエスさまは私たちも共に生きることをモットーとするように望んでいます。

聖書に次のように書かれています。

「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」

神様はいつでも、どこでも、いかなる身分の人にあっても互いに愛し合うことを願い、共に愛することを示し続けています。罪を作るのは人々の共に生きる信仰の足りなさからくる他にありません。神さまは私たちに、後になって喜びを示してくださいます。労苦の日々にあってもその後になって共に生きる喜びを与えてくださるのす。

靴屋のマルチンという物語をご存じの方が多いと思います。

妻も息子も亡くして絶望的になったマルチンは神さまに会える、と三日間待ち望んでいましたが、神さまは遂に現れませんでした。夜、祈っていると神さまの声がしました。

「マルチン、私はあなたに会いましたよ。雪掻きをしていた男の人を部屋に入れてあげたり、寒さにふるえている女の人と赤ちゃんにミルクを飲ませてあげたり、リンゴを盗んだ男の子の代わりにお金を払ってあげたりしましたね。あれはみんな私だったのですよ。」

マルチンはとても驚きました。自分が世界で一番かわいそうだと思っていたけどもっとかわいそうな人を知りました。神さまはいつも自分の事を見ていて下さるのだという事がよくわかり嬉しい気持ちになりました。一人じゃなかったですね?共に生きていることが後になって知る。皆さんもこんな経験をお持ちではないでしょうか?独りで頑張って生きてきたつもりが、本当は沢山の方々の支えによって生きていたのですね。共に生きることは共に支えられていることに気づかされます。

人間の世界では常に略奪を繰り返し、人が人を虐げてきました。それだけでなく、国が他の国を奪い、侵略してきた歴史があります。そして今も紛争が絶えません。こんな時代こそ共に生きる信仰を必要とします。戦争という現象がなくても、身近でいさかいがあり、殺し、傷つけ合い、ねたみ、そしていじめがあります。互いに愛し合い、共に生きる。これほど豊かな神の教えが現代社会には得られないのでしょうか?いつの時代にあっても神様からの罪と罰の社会を引きずって生き続けるのでしょうか?

私たちと共に生きていてくださるイエス・キリストを信じ、その教えと導きに心から従いましょう。

そのヒントとチャンスは教会に来て頂ければわかります。牧師の説教を通して、信仰を同じくする教会の人々との交わりから答えが得られます。どうぞ、教会にお出でください。

私の伊丹教会はあなたのお出でを心からお待ちしています。

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