神の御手を見出すとき

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聖書の言葉

モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」

旧約聖書 エステル記 4章13~14節

石原知弘によるメッセージ

何か大きな決断をするということは、とても難しいときがありますが、ここには、重大な決断を迫られ、そして勇気をもって前へと進んでいった一人の女性が出てきます。エステルという紀元前5世紀頃のイスラエルの信仰者です。エステルはペルシャ王の王妃として迎え入れられていたのですが、あるとき、王の部下の策略によって、イスラエル人の絶滅命令が下ります。この危機に際して、エステルの父親代わりであったモルデカイは、「今、この危機を救うことができるのは、エステル、おまえしかいない」と迫ります。それが先ほどお読みした聖書の言葉です。王の近くにいるエステルしか、この危機を救える人物はいないのです。しかしそれは、危険を伴う使命です。エステルも少しためらうところがありました。しかし、このモルデカイの言葉を受けて、エステルは決断します。

「私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」エステルはそう力強く決断したのでした。ここでエステルが置かれていた立場や状況は特別なものでしたが、私たちにも大切なことを教えてくれます。私たちも、日常生活のさまざまな場面で覚悟を決めたり、決断したりするということがあります。勇気をもって前へ進むための秘訣は何でしょうか。エステルが教えてくれる一つの大切なことは、神の摂理(せつり)への信仰、神の御手の働きを見出す信仰です。

モルデカイはエステルに言いました。「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」モルデカイは、エステルが今こうして王妃として立たされているということは、偶然の出来事ではなく、神のご計画によるものであり、神の摂理によるものであるというのです。摂理という言葉は「すべてのことを神さまが決めていて、そのとおりに物事を神さまが動かしていることである、だから、私たち自身がそこで何かを決断したり、動き出したりするということには、積極的な意味はない」というふうに誤解されているのではないかと思います。

しかし、本当は全く逆なのです。神の摂理とは「驚き」です。摂理とは、私たち自身には思いもよらない計画が、神さまによって着々と進められている、ということへの「驚き」なのです。そして、その驚きから、私たちも力強く前へと進んでいくのです。思いもよらない神の摂理は、私たち自身を、思いもよらない決断へと導きます。自分がこうしてあるのは偶然ではなく、また自分自身の人生設計の結果でもない、神の摂理であり、神の御手の働きであるということ。エステルはその信仰から前へと力強く進んでいきました。そして、エステルの決断それ自身もまた、神の摂理の中にあります。神さま御自身がエステルと共に働いてくださり、勇気ある決断へと導いてくださったのです。

神の摂理というふうに言いましたが、実は、エステル記には「神」という言葉が一度も出てきません。聖書なのに、とても不思議です。しかしもっと不思議なことは、エステル記を読むと、そこに出てくる人たちの中に圧倒的な神さまの働きを感じないではいられない、ということです。言葉で説明されていなくても、エステルの中に神さまが深く入り込んで働いておられることを見ることができるのです。神さまの摂理とは、何か操り人形でも扱うように、神さまが上から人間を動かしているというようなことではないのです。神さまが、人間の中に深く入り込んで働いてくださるのが、神の摂理なのです。だからこそ、私たちの中で、自分でも驚くような勇気や力がわいてくるのです。

エステル記の説教集で、『もしかすると、この時のため』という書物があります。旧約聖書の専門家であられた遠藤嘉信先生という方が書かれたものです。そのタイトルは、新改訳聖書でのモルデカイの言葉からとられているのですが、やはり、神さまの摂理に対する信仰の大切さということが説かれています。実は、遠藤先生は2007年6月に40代の若さで亡くなられました。筋肉が萎縮して動かなくなるという難病を患われてのことでした。最後は指先だけしか動かなくなり、パソコンのマウスを使って意思表示をしておられたそうです。エステル記の説教集のあとがきもそのような状況で書かれたものですが、そのあとがきの中に、病院のベッドの上で、自分自身の説教を奥様に読んでもらったときのことが書かれています。

「熱い涙が溢れて止まらなかった。もはや自分が書いた説教ではなかった。主の愛が突然迫って来て、御霊(みたま)ご自身が私たちの魂を揺さぶってくださったように感じた。みことばに共鳴し、反応できる自分が本当に嬉しかった。」

神の摂理を信じるということは、ともすると残酷なことに思えるかもしれません。大きな病気もまた神の摂理であるからです。しかし遠藤先生は、まさにその大きな病気との闘いの中で、神の摂理を信じることの大切さを説かれました。それは、神の摂理と信じて、あきらめるということではありません。どのような中にあっても、神の摂理を信じて、力強く神さまに応えていく、前へ進むということなのです。指先一本だけでも、神さまに応えることができるのです。魂が揺さぶられるようにして、神さまの愛に応えることができるのです。

今、ラジオの前の皆さんが、それぞれどのような状況の中におられるのか、私にはわかりませんが、しかし、一つだけわかることがあります。神さまの摂理の中で、皆さんは今、このラジオを聴いてくださっています。どうぞここに神さまの御手を見出してください。そして勇気をもって前へと歩みだしてください。

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