なるほど!クリスマス

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聖書の言葉

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

新約聖書 ルカによる福音書 2章6,7節

常石召一によるメッセージ

私の家の近くの商店街では随分前からクリスマスソングが奏でられ、きらびやかなツリーが飾られています。何となく心が躍るような、そんな季節です。

いよいよ来週の日曜日にはクリスマスを迎えることとなりました。みなさんはどのようにクリスマスの時を過ごそうとしておられるでしょうか?日本でもクリスマスには集まって楽しむという習慣がすっかり定着しました。そのためにかえって、この日には何が何でも楽しく賑やかに過ごさなければならない、そんな強迫観念に悩まされている方もおられるのではないでしょうか。

私は学生時代、実家から離れて一人暮らしをしていました。バブルがはじける前でしたから、今以上にクリスマスは派手なイベントでした。イブの夜にはやたらと高いレストランを予約して恋人と過ごしたい、そんな雰囲気に満ちていました。そんな中、私はクリスチャンとして「クリスマスというのはそんなチャラチャラした日じゃないんだ!」と心の内でつぶやきながら過ごしていました。

ちょうど今と同じクリスマス1週間前の時期でしたが、実家の母親から段ボールが送られて来ました。私は、きっと母親が一人寂しく暮らしているであろう息子のために気を遣ってクリスマスプレゼントを送ってくれたのだろうと思いました。しかし中をあけてビックリです。ゴムが伸び切った、よれよれの、履いても一瞬でずり落ちそうな使い古した靴下が20足程入っていたのです。入っていたのはそれだけです。どう理解したらよいのか。メモが入っていませんのでさっぱり分かりません。「ま、いいか」と思って放って置きました。そしてクリスマス前日の土曜日の晩、久しぶりに母親に電話をしました。そして聞いてみました。すると母はこう言いました。「あれはお父さんのだけれども、お父さんはよれよれでもう履かないと言う。でも捨てるのももったいないし、私も一生懸命履いているからあんたも履きなさい」と大真面目に言うのです。(こうやって節約して学校に行かせてくれた)。母親の気持ちは有難かったのですが、翌日の教会のクリスマス礼拝にそのよれよれ靴下を履いていく気にはどうもなれませんでした。

さてクリスマス当日、教会ではプレゼント交換が行われました。私にあたった袋を開けてみますと、百貨店で購入したと思われる、私がそれまで一度も履いたことが無いような高級な・そして温かい靴下が入っていました。私はそれを見て、「なるほど、こういう風につながるのか!」と思いました。神様のユーモアを感じて、嬉しく楽しい思いにさせられました。

さて、聖書には世界で初めてのクリスマスを迎えた人たちが描かれています。彼らは決して、楽しく賑やかにそして満たされた状態でその日を迎えたのではありませんでした。それぞれがその日その日を生きるのに精いっぱいでした。貧しさや悩みや痛みを抱えていました。そしてクリスマスの出来事に遭遇しても、それがどんな意味を持つのか、どのようにつながっていくのかが理解出来なかったのです。イエス様の母親となったマリアでさえそうでした。

マリアは当時まだ13歳位だったと言われています。そんな少女が突然天使から「あなたは男の子を生む」と告げられたのです。彼女はヨセフと婚約してはいましたが、まだ関係を持っていませんでした。それなのにお腹が大きくなる。愛するヨセフを始め、家族や親類にも何と言われるか。断絶され、死刑になってもおかしくない危機的な状況となったのです。

また、マリアは天使に「その子は偉大な人になる、いと高き方の子と言われる」とも言われました。普通の人間ではない、神様の性質を完全に持っておられるお方があなたから生まれる、およそ信じがたいことが起こると言われたのです。マリアはどれほど恵まれた状況へと変わったのか?全然変わりませんでした。それどころか、子供がいつ生まれてもおかしくない身体で人口調査のために長い旅をしなければなりませんでした。マリアとヨセフはローマ帝国の命令に振り回されたのです。そしていざ出産の時も宿を見つけることすら出来ず、家畜小屋でイエス様を産んだのです。

神様の約束には一体どういう意味があるのか。そしてそれはどのように現実のものになっていくのか。マリアには分かりませんでした。しかしマリアは事の成り行きをじっと見て、それらを心に納めて、イエス様の成長を見守りました。そしてとうとう「なるほどそういうことだったのか」ということが分かりました。それは目の前でイエス様が十字架に架かって殺され、三日の後に復活なさって後でした。マリアは、神が人となり人の身代わりとなって救いの業をなして下さったということが、イエス様はそういうお方として天から来られたのだとようやく分かってのです。

神様の思い・イエス様の愛は、私たちにはすぐには分からないものです。満たされない思いを抱き、一体どうしてこんな目に遭わなければならないのかと嘆き、呻くのです。私たちはクリスマスの時に生まれたイエス様を知る時に、「なるほどこうして人は救われるのだ。こういう手があったのか」と驚き、喜ぶことが出来るのです。神様は靴下よりもはるかに素晴らしい、永遠の贈り物を私たちのために用意して待っていて下さっています。

今週、各地の教会ではクリスマスをお祝いする礼拝が行われています。どうぞ出席下さり、神様の恵み、救いのご計画の素晴らしさを味わっていただきたいと思います。

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