主の御心であれば

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聖書の言葉

あなたがたは、「主の御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。

新約聖書 ヤコブの手紙 4章15節

宇野元によるメッセージ

毎年、同じかたちの手帳を愛用しています。これに予定を記します。小さな手帳なので、細かい字で記さなければなりません。たいてい、急いで書き込みますから、あとで判読が難しくなります。そんなふうに、ページを黒くしながら、ふっと、先のことはわからない、と思います。

カール・バルトという人をご存じですか。第一次世界大戦前から、1960年代後半にかけて活動したキリスト教会の教師です。いろいろな評価がなされますが、著作の質と量の両面からみて、20世紀の最大のキリスト教神学者であると言ってよいでしょう。20世紀ヨーロッパの代表的思想家の一人として紹介されることもあります。カール・バルトは長く生きた人でした。パイプの煙が絶えない愛煙家でしたが、80歳を超える長寿に恵まれています。苦しいこともたくさん経験しています。大きな病気もしています。けれども、老いと病の苦しみを経験しながら、生涯の終わりまで仕事をつづけた人でした。亡くなったのは、翌日の朝、奥さんが発見しました。書斎で机にうつ伏せになっていました。机には、書きかけの論文が残されていました。

この人は、手紙の人でもあります。最晩年に、当時、ドイツ語圏のベストセラー作家であった人と友人になって、さかんな手紙のやりとりをしています。それらは往復書簡として出版されています。これを読むと、彼が、仕事とともに、どんなに人生を愛していたか、日々の生活を楽しんでいたかが、よくわかります。人に心をひらき、たえず世の出来事に関心を寄せています。ユーモアが溢れています。この往復書簡は日本語でも出ていますので、興味のある方は、ぜひ読んでみてください(『晩年に贈られた友情――バルト・ツックマイアー往復書簡』新教出版社)。

小さな本の中に、楽しく、しかも励ましになることが詰まっています。たとえば、この神学者は、音楽家を模範にしていたようです。90歳のカザルスは、毎日、チェロの練習をしている。なぜ、と問われて、こう答えた。進歩してゆくのを感じているからだ。そんなエピソードを書いています。また身近な出来事から、こんなことを書いています。「きょう、ある人から、あなたの神学にとって、理性はどういう意味を持っているのかと尋ねられました。」キリスト教の信仰は、理性とどう関係するのだろうか?あるいは、信仰は理性を捨てることなのか?そういう問いがあるでしょう。彼は、その人にこう答えましたと言います。「理性は、わたしに必要ですよ!」

そんな手紙のひとつに、今度、若い人たちと勉強会をしようと思うと書きながら、彼はこの言葉を記しています。

主の御心であれば、生きながらえて

今度、これこれのことをしたい。将来のことについて語りつつ、同時に、私はこのこともおぼえています、と言う。「主の御心であれば」。何気なくそう記されていますが、聖書から取られています。けさの言葉がそれです。

先のことはわからない。でも、このことを心にとめる。それは、今の時を積極的に生きることへ導いてくれると思います。今の時を、喜んで受けとめる者とならせてくれると思います。主の御心であれば。(1)このことは、一方で、私たちを錯覚から守ってくれます。手帳に予定を書き込むとき、将来のことを、先取りしているかのように錯覚することから。

(2)主の御心であれば。このことはまた、計画を持ちつつ、願いつつ、不安や恐れから自由にしてくれます。来年のこと、明日のことは、主と呼ばれる神の御心のうちにある。運命や偶然の中に置かれているのではない。このことは、現在について確かな思いを与えてくれます。今を確かな思いで生きる者にしてくれます。

ご一緒におぼえたいものです。聖書が「主」と呼ぶ神は、私たちにイエス・キリストをお贈りくださった方です。私たち一人一人を思い、喜びと悲しみを共にされた、イエス・キリスト。そして自らを犠牲にされた。私たちの命を守るために。そのイエス・キリストの神の御心のうちに、私たちの時が置かれています。

主の御心であれば、生きながらえて

私たちは自分の時、人生の時間を支配できません。それは主の御心のうちに置かれています。そして、主の御心は愛の心です。私たちは冷たい世界の中にではなく、神の愛の中にある。

だから、主の導きのもとで、きょうを平安に生きよう。今日という時、また人に関心を寄せて歩もう。そう願い、祈ります。

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