安息日の癒し

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聖書の言葉

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

新約聖書 マルコによる福音書 3章1~5節

吉田謙によるメッセージ

安息日の会堂にイエス様が来られた時に、片手が萎えて、社会の片隅でひっそりと生きていた人が真ん中に立たされ、癒されました。この片手が萎えた人は、伝説によると、石を刻む職人であった、と言われています。最初から障害があった人ではなくて、もともとこの人は元気に働いていた人であった、と言うのです。けれども、脳溢血か何かで、ある時、この人は半身不随になってしまったのでしょう。当時は、因果応報の考え方が人々の心を支配していました。生まれつき障碍をもっていたり、何らかの事情で障碍を抱えて苦しんでいる人たちは、何か悪いことをしたからそうなったに違いない、自業自得なのだ、と考えられていたのです。ですから、この病気による障害は、今、私たちが想像する以上に、彼の心に深い影を落としていたに違いありません。「もうこれで自分の人生は終わってしまった」「神様からも、世間からも見捨てられた!」こういう思いが、彼の心を支配していたのです。けれども、その彼がイエス様によって癒されました。不自由な体ゆえに一人前に扱われず、社会の片隅でひっそりと生きていたこの人が、イエス様によって人々の真ん中に立たされ、もう一度、希望をもって人生を歩み始めたのです。

私たちも、しばしば心が萎えてしまうことがあります。自分の弱さや欠けや汚れに嫌気が差して、もう自分は駄目ではないかと諦めてしまうことがあるのです。けれども、私たちは安息日の礼拝の中で、そんな傷ついた魂が癒されるのです。私たちには、それぞれに弱さがあり、欠けがあり、破れがあります。けれども、神様は「そんなあなたでは愛せない」とは言われません。「美しいから愛する。格好いいから愛する。頭が良いから愛する。優しいから愛する。そうではなくて、私は欠けや破れや弱さをもった、あるがままのあなたを愛しているのだ。だから諦めないで、勇気を出して、もう一度、やり直してみなさい。新しく生きてみなさい!」こう招いて下さるのです。安息日の礼拝は、この神様の無条件の愛をしっかりと受けとめる時です。そうやって神様の深い愛に包まれながら、傷ついた私たちの魂が、癒されていく時であります。

またファリサイ派の人々は、自分の正しさを主張するあまりに、心が頑なになり、安息日の礼拝の中でさえ、他人に悪意の眼差しを向けてしまいました。これも、しばしば私たちが陥る姿ではないかと思います。私たちも、うっかりすると、すぐに自分が正しいと思い込んでしまうのです。家族の中で、職場の中で、近所づきあいの中で、教会の中で、自分だけが正しいと思い、間違っているのは相手の方だと簡単に決めつけてしまう。そして相手をぎゃふんと言わせたいと思ってしまうのです。これは呪いの心です。そこで私たちが知らなければならないのは、その度に私たちは、キリストを十字架につけているのだ、ということです。他でもない、この私がイエス様を十字架につけた、このことを私たちはしっかりと受けとめなければなりません。そして、そういう私たちのためにイエス様は、十字架の上で祈って下さいました。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』と。

このように「萎えた心」も「頑なな心」も、私たちの内にも起こり得る人間の現実です。イエス様は、そのような私たちの現実の只中に来て下さいました。そして日曜日ごとに、礼拝の中で、このような私たちの傷ついた魂を癒して下さるのです。

これが、本来の安息日の礼拝の姿です。神様が私たちをそのようにして愛し抜いて下さいました。この神様の大きな大きな愛を味わいながら、傍らにいる人のことを忘れてしまうようなことが、果たして起こるでしょうか。もし、そういうことがあるならば、まだ私たちは本当の意味で神様の愛を味わい切れていない、ということでしょう。

あるクリスチャン雑誌に、こういう小さなエピソードが掲載されていました。

「うつになった時、ちょうど教会役員も務めていました。つらい時期は礼拝出席もできず、家でなんとなく肩身の狭い思いをして、じっとしていました。ある日曜日の午後、礼拝帰りの妻と共に、役員仲間が訪ねてきてくれました。『ちょっと玄関口まで出られる?』と私を呼びました。重い足取りで玄関まで行くと、彼は何も言わず抱きしめてくれました。恥ずかしかったけれど、とても嬉しかった。受け入れられていると感じました。」

本当に小さな小さな交わりです。けれども、これは真実の安息日の礼拝が捧げられているからこそ生まれてくる信徒の交わりではないかと私は思います。たとえ自分と意見が違ったとしても、神様はその人をも十字架の愛で愛し抜いておられます。私たちは、神様から愛され、受け入れられている者同士なのです。そうであるならば、互いに愛し合い、受け入れ合い、欠けは補い合い、支え合っていくことが教会の本来あるべき姿ではないでしょうか。

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