荒れ野で叫ぶ声

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聖書の言葉

預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、

あなたの道を準備させよう。

荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ。』」

そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

新約聖書 マルコによる福音書 1章2~4節

吉田謙によるメッセージ

洗礼者ヨハネという人は、イエス様が公の活動を開始する前に、人々に救い主であるイエス様を指し示し、あらかじめその救いの働きの道備えをするために遣わされた人です。では、具体的に彼は何をしたのでしょうか。4節にはこう言われています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」

ヨハネはヨルダン川で洗礼を人々に施しました。その洗礼について「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」という説明がつけ加えられています。ですから、この洗礼を受ける者は、まず自分が「罪の赦しを必要としている罪人」である、ということを認めなければなりません。つまり、自分には罪がないと考えている人や、誰でも罪を犯しているのだから、あえて自分の罪を赦してもらう必要などないと考えている人は、この洗礼にはあずかることができなかったのです。

聖書を読む時に、必ず避けて通れない言葉が、この「罪」、あるいは「罪人」という言葉です。この「罪」という言葉のもともとの意味は、引いた矢が的をはずすことを意味する、と言われます。的をはずす生き方をしていながら、それに気づいていない。自分は的をはずしていないと言い張る。そこに罪の現実があるのです。それでは、私たちの生き方が「的はずれ」にならないための目指すべき的とは、いったいどこにあるのでしょうか。宗教改革者カルヴァンは、「神を知り、神を礼拝する喜びを知らない人は人間ではない」と言っています。私たちは「神様を知り、神様を礼拝する」ために神様から造られました。その私たちが神様を忘れ、神様以外のものを拝むならば、それは将に的はずれな生き方をしている、ということになるでしょう。聖書はそれを「罪」と呼び、そのような的はずれな生き方をする人のことを「罪人」と呼んでいるのです。

それでは、「悔い改め」とはどういうことでしょうか。世間一般では、通常、この言葉は、悪人が今までの生き方をやめて、まじめに生き始めた時によく使われると思います。「私は悔い改めました。もう悪いことはしません。足を洗います!」と言う時によく使うのです。けれども、聖書が言う「悔い改め」という言葉は、もっとシンプルな意味を持っています。それは「方向転換」という意味です。

私たちは、自分の心に荒れ野があることをうすうす感じ取っているのではないかと思います。平安を失い、愛を失い、妬みや憎しみに捕えられ、人との良い関係を築いていくことができず、むしろそれを破壊してしまうことが多い、そのことを真剣に嘆いているのです。けれども、その根源に、神様に背き逆らっている罪があるということには、なかなか気づかない。神様から離れていることが、それらの苦しみの根本的な原因であり、本当の解決は、神様のもとに立ち帰り、罪の赦しをいただくことであることがなかなか見えてこないのです。しかし、私たちが抱えている問題、荒れ野を歩む苦しみの源は、紛れもなく私たちが神様のもとから離れてしまったという罪にあります。そもそも、この世界は、本来、神様が造られた素晴らしい世界です。私たちも神様に造られた者であり、神様に望まれて、この世界を生き始めました。ところが私たち人間は、造られた神様に背を向けて、自分勝手な生き方をし始めたのです。その時に、この素晴らしい世界が住みづらい世界になっていきました。私たちの人生も空しく、悲惨なものになっていったのです。これはよくよく考えてみると、極々当然のことと言えるでしょう。そもそも私たち人間は、神様と共に生きるようにと造られたわけで、その神様から離れて生き始める時に、この人生が空しくなるのは当然です。この世界が住みづらくなるのは当然であります。洗礼者ヨハネは、そのことを人々に伝えるために神様から遣わされた人でした。

教会も、クリスマスを直前に控えたこの時期に、この洗礼者ヨハネに託された務めを果たしていかなければなりません。つまり、的外れな生き方から立ち帰るために、イエス・キリストという道筋をはっきりと指し示すのです。このラジオの働きも、その一端を担うことが出来ればと願っています。

今の時代は、イエス様が歩まれた時代によーく似ています。世の中が悪い、あの国、この国が悪い、政治家が悪い、教育が悪い、あの人、この人が悪い、いくらでもその責任を転嫁することが出来ると思います。世の中がよじれ、曲がっていれば曲がっているほど、自分たちと世の中との差が、目についてくるのです。けれども、自分の中にあるよじれには全く気づいていない。そうやって私たちの生き方は、うぬぼれと傲慢と甘えとプライドによって、どんどんどんどん、よじれていくのです。肝心なのはそういう甘えは一切捨てて、本気で悔い改めることです。自分だけは正しいと思う傲慢さ、自分が歩んでいる方向を何としても変えたくないと思う頑なさ、必死にしがみついて手放そうとしないプライド、つまらないこだわり、自分を卑下する卑屈、それらを全部かなぐり捨てて、本気で悔い改めるのです。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ!」今日私たちは、この荒れ野で叫ぶ声に耳を傾けたいと思います。あの人、この人ではなくて、まず私たち自身が本気で悔い改めなければならない。これがイエス様を心にお迎えするための備えです。

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