悪魔の人間観

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聖書の言葉

すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。

新約聖書 使徒言行録 3章2節

吉田実によるメッセージ

今回は、只今お読みいたしました使徒言行録の物語からお話をさせていただきます。イエス様の弟子のペトロとヨハネが、生まれながらに足の不自由な男をいやして立ち上がらせ、歩けるようにしたという、奇跡の物語です。この男は毎日神殿の「美しい門」のそばで、境内に入る人々に施しを乞いながら生きていました。

私がこの箇所で一番気にかかりますことは、「神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」と、まるで物のように書かれていることです。この一言に、この人が置かれていた現実の厳しさがよく表れていると思うのです。当時のユダヤでは多くの人が、重い病や障がいは「罪の報い」であると考えていました。いわゆる「因果応報」という考え方です。イエス様の弟子たちでさえ、そういう考え方をしていたということが、ほかの箇所からわかります。ですからこの足の不自由な男も、親か親戚か、誰か近しい者の「罪の報い」としてこのような体で生まれた「呪われた存在」とみなされていたに違いないと思います。そんなこの男の厳しい現実が、この「置いてもらっていた」という一言に現れていると思うのです。

生まれつき足が不自由で立つことも歩くこともできないので、他の人と同じように働くことができない。人からは一人前の人間と認められず、「役たたず」とみなされて、「せめて参拝客の同情を買って、施しをしてもらって小銭を稼げ」と、沢山の人が通る参道に置かれて、皮肉にも「美しい門」の前で、惨めな姿を毎日さらさなければならなかった。そういうこの男の悲しみを想像いたします時に、心が痛みます。重い障がいを持って生まれてきた人を「呪われた存在」とみなすような人間観。それは悪魔の人間観です。当たり前ですが、神様は人を呪ったりなさいません。悪魔が人を呪い、偽り、生きる力を奪おうとするのです。「お前は役に立たない。お前は誰からも必要とされていないし、愛されてもいない。だからお前には存在価値がない。生きるに値しない。そうではないと言うのなら、そのことを証明してみよ。頑張って自分の存在価値を示せ!人をけ落とせ!そして、自分の方が上だと証明してみろ!」と、様々な仕方で人に語りかける。そしてそれが出来る人間を偽りの喜びで満たして、出来ない人間の生きる気力を奪う。それが悪魔のすることです。そうやって悪魔は人を呪うのです。悪魔とは口が裂けて、角が生えて、矢印のようなしっぽを持っている緑色の怪物などではありません。それは人間を神様から引き離して生きる気力を奪い取ろうとする「暗闇の力」のことなのです。そして、こういう悪魔的な力が実際に人類の歴史の中に露骨な仕方で現れてしまうということがときにあります。その一つの例が、あのヒットラー率いるナチス・ドイツが行なったことだと私は思います。

ナチス・ドイツが沢山のユダヤ人を虐殺した「ホロコースト」については有名ですけれども、そこに至る前に、そういうナチスの悪魔的な人間観がよく現れた悲惨な出来事がありました。それはいわゆる「安楽死作戦」というものです。すなわち、不治の病や重い障がいのある人間は社会の役に立たない「劣等人間」とみなされまして、そういう人間のために国家が金を使うことは「全くの無駄遣いである」との判断から、「消毒」という呼び方で、1945年までに約20万人の重病患者や障がい者の命が奪われたと言われています。「消毒」ということは、病人や障がい者を人間ではなく「バイキン」扱いしたということです。これが「悪魔の人間観」です。能力や効率や生産性などを基準にして人間を計って「役に立たない人間は生きるに値しない。」と判断する。そういう考え方です。当たり前ですが、こんな考え方は間違いです!悪魔は真実を偽って人の命を奪うのです。

すでに何度もお話しいたしましたように、我が家の長男は重度の知的障がいがあるのですけれども、そして私は障がい者を美化するつもりは全くありませんが、彼も「神様によって『神様のかたち』として造られた、同じ人間なのだ」ということを毎日接していてつくづく感じます。人は重い障がいがあろうと、病があろうと、寝たきりになろうと、皆神様によって「神様のかたち」として造られた、掛け替えのない、貴い、大切な存在なのでありまして、その貴さは能力や功績などによって計られるものではないのです。まして「生きるに値しない人間」など、一人もいないのです。そんな「神のかたち」である沢山の仲間たちの貴い命が、「生きるに値しない」とみなされて奪われてきたという歴史の事実を思います時に、深い悲しみと憤りと恐怖を感じます。そしてそういう悪魔的な力はナチス・ドイツだけではなくて、現代の私たちの国の中でも、形を変え姿を変えて、密かに人の心を支配し、貴い命を奪おうとして働いているように思います。キリストの教会は、そういう悪魔的な暗闇の力と霊的に戦うのです。

ペトロとヨハネは一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言いました。物ではなく同じ人間として弱い立場の人を見つめるまなざしの中で、悪魔の暗闇の支配は打ち砕かれて行くのです。(この続きはまた来週!)

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