神が土台の人生

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聖書の言葉

主にのみ、わたしは望みをおいていた。

主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。

滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ

わたしの足を岩の上に立たせ

しっかりと歩ませ

わたしの口に新しい歌を

わたしたちの神への賛美を授けてくださった。

旧約聖書 詩編 40編2~4節

保田広輝によるメッセージ

この詩編の冒頭には、「主にのみ、私は望みをおいていた」とあります。原文のヘブライ語では、神様が祈りに応えてくださることを「待って、待って、待ちつづけた」というような意味になります。ただぼんやりと待つのではなく、心の底から神様を待ち望む、耐え忍んで神様を待ち望む、という姿勢が、この意味に込められています。続けて、「滅びの穴、泥沼」とありますが、これは自分の力では絶対に這い上がることができない場所、死の世界を意味します。

つまり、この詩編を書いた人は、自分ではどうしようもできない苦しみの中で、神様に助けを祈りながら、待って、待って、待ちつづけて、神様が祈りに応えて救い出してくださった、と言うのです。そして、滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げてくださった神様は、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませてくださるお方です。神様は、私たちの人生を確かなものにしてくださるお方なのです。

神様を知らない人はみんな、自分自身を土台にして生きています。でも、人生には自分ではどうしようもできない苦しみがありますし、いつ死ぬか分からない自分自身を、人生の土台に置くことは、危険なことだと思うのです。でも、神様は、イエス・キリストを信じる人たちを死の世界から救い出してくださって、「岩」であり、確かな土台である神様に支えられる人生へと導いてくださるのです。イエス・キリストを信じて、神様と共に歩むならば、私たちの人生は確かなものになります。

ちなみに、私はデュシェンヌ型筋ジストロフィーという治療法のない難病を抱えています。いま25歳ですが、ドクターから、余命は残り10年で、あと数年で寝たきりになると言われています。いま身体は手の親指だけしか動かせなくて、電動車椅子と24時間ずっと人工呼吸器を使って生きています。

かつての私は自分を土台にして生きていました。ひとりで生きていける健康な自分、弱さのない自分、社会で成功する自分、そういう自分を目指していました。だから、こんな難病になった自分は、なんて惨めなんだ、こんな難病で何もできない自分は生きる意味すらない、と自分の価値を自分で決めていました。自分を土台にして生きていたら、自分の価値を自分で決めてしまうので、私はずっと苦しかったです。生ける屍のように生きていました。

でも、自分ではどうしようもできない難病の苦しみの中で、神様に祈りながら、待って、待って、待ちつづけることで、聖書と祈りを通して、神様がこのように応えてくださいました。神様が難病の私をつくってくださった、私は神様から望まれて生まれてきた、私も神様の作品で、難病の私は神様の失敗作ではない、と神様が語ってくださったのです。

自分の価値を自分で決めたら、辛いだけです。でも、苦しみの中にあっても、神様の言葉である聖書を通して、自分を捉えていくことで、ありのままの自分を受け入れていけますし、聖書と祈りを通して、いつも神様から愛されていることを感じられるから、難病の苦しい人生でも、生きる力と喜びが湧いてくるんですよね。

かつての私は自分を土台にして生きていたので、難病という大きな苦しみに直面したら、生きる意味がまったく分からなくなり、生ける屍のようになってしまいました。でも、今は神様を土台にして、神様の言葉である聖書を土台にして、神様の支えを感じながら、人生をしっかりと歩んでいけるように変えられました。

そして、難病じゃなければいいのになんて、今は思いません。私は、わたしという人間であることが幸せですし、神様が私をこうお創りになったのには、理由があるからです。神様は、「私は難病だけど、こう生きている。難病であっても、人生をしっかりと歩んでいける。」ということを、人に見せなさいっていう機会をお与えになったのだと思います。私は難病だからこそ生きる意味があるのです。

神様を人生の土台とするとき、絶望的な状況でも、乗り越えることができます。病気、仕事、学校、様々な人間関係の中の苦しい状況でも、祈りながら、耐え忍んで神様を待ち望んでいくとき、神様は必ず応えてくださいます。泥沼から引き上げてくださいます。そして、神様は私たちの人生をしっかりと歩ませてくださるのです。

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