聖書の言葉
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
新約聖書 ルカによる福音書 7章13~15節
藤井真によるメッセージ
私たちは人生の至るところで涙を流します。嬉しい涙もありますが、時に、悲しい涙を流さなければいけないこともあります。特に、愛する者を失ったとき、悲しみのあまり、目から溢れんばかりの涙が流れます。キリスト教会においても、教会員の葬儀が執り行われます。その度に、御遺族の方や教会員の方が、涙を流している姿を幾度も見てきました。
先程お読みした聖書の言葉の中にも、一人息子を亡くした母親が泣いている姿が記されていました。この母親は「やもめ」であったと記されています。夫をずいぶん前に亡くしたのかもしれません。当時のユダヤの社会において、やもめは弱い立場にありました。きっとたくさんの苦労を重ねてきたのでしょう。
しかし、家には愛する一人息子がいるということが、この母親にとって、大きな支えになったのではないでしょうか。自分は決して一人ではない。愛する家族がいる。守るべき家族がいる。そのことが、支えとなり、どんな苦労をも耐え忍ぶことができたのではないでしょうか。しかし、その息子が今死んでしまったのです。生きる支えを失った母親は、悲しみの涙を流しました。静かな涙ではないでしょう。きっと、叫ぶような声で泣いたに違いないと思います。
しかし、ちょうどそのときです。主イエスが、母親が住んでいるナインという町にやって来られたのです。そして、息子の葬儀の列に近づいて来られたのです。そして、主イエスは、母親に驚くべきことをお語りになりました。それは「もう泣かなくともよい」という言葉です。
「もう泣かなくともよい」。この主イエスの言葉を聞いて皆さんはどう思われるでしょうか。なぜこんなことをおっしゃるのか正直分からないという方がたくさんおられるのではないでしょうか。例えば、お葬式で、泣き悲しむ御遺族の方たちに向かって、「そんなに泣かないでください」と、言うことなど到底できないと思うのです。それは悲しんでいる人たちに対してたいへん失礼だと思うのです。
愛する者の死を前にして、私たちはどうすることもできません。どれだけ深く愛していたからといって、死んだその人が生き返るわけではないのです。あるいは、どれだけお金を積んでも、その人が生き返るわけでもないのです。死を前にして、私たち人間はまったく無力であることを思い知らされるのです。そんな私たちが、愛する者の死を前にして、出来ることと言えば、その人のために悲しむこと、涙を流すことだと思います。
しかし、主イエスはおっしゃるのです。「もう泣かなくともよい」と。「もう泣かなくともよい」というのは、「どれだけ泣いても、死んだ者は生き返らないのだから、そんなに悲しまないで、早く元気を出しなさい」ということではないのです。聖書には、「主はこの母親を見て、憐れに思い」と記されていました。「憐れに思う」というのは、ただ可哀想だなあということではありません。体が激しく痛むほどの思いに突き動かされたということです。いのちとは反対の死に向かって突き進む葬儀の列、その死の力を止めることができない人間の悲しさをご覧になって、心が激しく揺さぶられたのです。そして、亡くなった息子の柩に手を触れられ、こうおっしゃいました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると死んだ息子は甦ったのです。
私たち人間は、死という現実を受け入れることがなかなかできないと思います。だから、お葬式の時に、「まるで眠っているようだね」とよく言うのです。この人は死んではいないのだ。眠っているだけなのだ。だから、大声で叫んだら、きっと起き上がるに違いないと思い込んでしまうのです。でもどれだけ叫んでも、どれだけ呼びかけてもその人が起き上がるわけではないのです。
しかし、主イエスの叫び、主イエスの呼び掛けは、違います。死を突き抜けてその人に届くのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」この主イエスの声は届くのです。だからこそ、母親に「もう泣かなくともよい」とおっしゃってくださったのです。
この主イエスの言葉に深い慰めを覚えます。私自身、牧師として教会員の死に何度も立ち会ってきました。もちろんそこで一緒にお祈りをしたり、一所懸命慰めの言葉を語るのですけれども、死に立ち向うということは,本当に厳しいことだなあといつも思わされるのです。でも、「もう泣かなくともよい」とおっしゃって、若者をよみがらせてくださった主イエスが私が共にいてくだるということ。そのことにいつも励まされ続けてきました。
主イエスの歩みは、十字架に向かう歩みでした。私たちの罪を背負い、十字架について死なれたのです。でも、三日目に主イエスはよみがえってくださいました。死に打ち勝たれたいのちの主ご自身が、私たちに呼び掛けておられます。「もう泣かなくともよい」「起きなさい」と。この声に耳を傾ける時、私たちは死の恐れからも、死の悲しみからも解放されるのです。