神の審査

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聖書の言葉

同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。

新約聖書 テモテへの手紙一 3章8~10節

赤石めぐみによるメッセージ

教会には牧師以外に、いろいろの奉仕をしてくださる方がいらっしゃって、それで礼拝と教会のさまざまな活動が成り立っています。どの奉仕も、教会にとって大切なものですが、今日は特に、私たちの教会で「長老」とか「執事」という役職名が付いている奉仕者たちのことについて、少しお話してみたいと思いました。なぜなら、今日は、私たちの教派の多くの教会で、「会員総会」というものが行われ、そのなかで、この「長老」とか「執事」と呼ばれる人たちを選び出すことをする日だからです。

「長老」や「執事」と呼ばれる人は、信仰的に立派そうな人、教会を代表するような偉い人、というイメージがあるかもしれません。いったい教会はどのような聖書の教えに基づいて、この「長老」や「執事」を選び出すのでしょうか。それは主にテモテへの手紙に書かれていて、最初にお読みした箇所はその一部です。これは長老にも執事にも当てはまる事柄です。

「奉仕者たちは品位のある人でなければなりません」。

「品位のある人」とは、神を畏れ敬う態度の人という意味です。新改訳聖書などでは「謹厳」と訳されていて、「どんな時でも言行を控え目にして、ほかの人と同じように冗談を言ったりふざけたりしないこと」と辞書にあるとおりです。神様の目をいつも意識している態度の人です。

「二枚舌を使わず」については、ヤコブの手紙3章を読んでみていただきたいと思います。この中に「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3:9,10)とあります。主を賛美していながら、人の悪口を言うということをしない、ということです。

「清い良心の中に、信仰の秘められた真理を持っている人」というのは、清い良心をもって(けがれのない判断力によって)、信仰の奥義(または神の真実についての奥義)をしっかり把握している人、ということです。聖書の言葉の意味をよく知り、信じている人ということです。

神を畏れ敬う態度の人かどうか、主を賛美していながら、人の悪口を言っていないかどうか、大酒を飲んだり、むさぼりの罪を犯していないか、なによりも、聖書の言葉の意味をよく知り、信じている人かどうか、「まず審査を受けるべきです」とあります。この審査とは、だれの審査だと思われますか。教会員の皆さんの審査でしょうか。牧師の審査でしょうか。

ここはただ受身で「試されるべきです」と書いてあり、聖書の中でこの動詞の主語は、多くの場合、神さまです。ですから、そういう人であるかどうか、長老や執事に選ばれようとしている人たちは、まず神さまに試されるべきだ、神さまに心を探られて審査を受けるべきだ、と書いてあるのです。

この聖書の箇所を読んで自分を省みて、自分にOKを出せる人はなかなかいないと思います。でも、「聖書にはこう書いてあるけれど、そんな人間、どこにもいないんだから、書いてあることなんかどうだっていいんだ」と開き直ってしまってもいいのでしょうか。なんのために聖書は、このように、いもしない人間の資格を書いて、そういう人を長老や執事の務めに就かせなさい、と命じるのでしょう。神さまはどういうおつもりなのでしょうか。

神さまは、奉仕者として、本当は、そのような人間を望んでおられます。そこで、この聖書の言葉に照らして自分を省みてみてほしい、そして、自分は罪深くて、自分の力だけでは到底できない、ということに気づいてほしいと思っていらっしゃいます。そういう打ち砕かれた心で、神さまに助けを求めて祈る人を神さまは喜んで奉仕者として立てて、お用いになるのです。

モーセという預言者がそうでした。「行きなさい。わたしはあなたを遣わす」(出3:10)と神さまに言われたとき、モーセは「わたしは何者でしょう」と言って引き受けることをためらい、「わたしは必ずあなたと共にいる、いると言ったらいる」と言ってくださっても、「でも、彼らは信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言い逆らい、いろいろな不思議なしるしを見せてもらっても、「ああ主よ。わたしは舌の重い者なのです」、「どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と拒み続けました。それでも神さまはご自分でお決めになったとおりに、こんな弱々しいことを言うモーセを遣わされました。

イザヤという預言者の場合は、遣わされる前に、神さまがまず、イザヤの口に炭火を当てた、と書いてあります。イザヤは唇に大やけどを負って聞き取りにくい言葉しか喋れないようになってしまったはずです。それから神さまは、「誰を遣わすべきか」というなぞなぞのような言葉をイザヤにかけて、そのような唇になってしまったイザヤ自身に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えさせました。そのように、身体的に弱く、醜くさせられてから遣わされることもあるのです。

神さまの審査とはこういうものです。そのような神さまの審査を受けて、心を探られ、自分の足りなさに気づきながらも、「神さまがわたしをお用いになるとおっしゃるのなら、応えてみよう。教会員の皆さんが祈りで支えてくださるのなら、皆さんにお仕えしよう」という決心を与えられた人が、長老や執事として任職されます。実際の教会に行って見る長老や執事の人の中には、一見、欠点や弱さが目につくような人もいらっしゃるかもしれません。でも、神さまはそういう人を審査なさって、奉仕者として立てて、お用いになります。これが世の中の組織の人の選び方とは違うところなのです。

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