私の人生を記録してくださる神

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聖書の言葉

胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。

旧約聖書 詩編 139編16節

藤井真によるメッセージ

私事で恐縮ですが、今年の6月に、我が家に男の子の赤ちゃんが産まれました。いのちを与えてくださった神様の恵みに心から感謝しています。色んな方から「赤ちゃんが産まれると生活が激変するよ」と言われていましたが、まさにそのとおりになりました。生活が激変するというのは、確かに赤ちゃんのお世話で忙しくなるということがあるかもしれません。しかし、別の言い方をすれば、これまで見なかった光景を見るようになるということでもあるのではないでしょうか。赤ちゃんのオムツ、哺乳瓶に粉ミルク、服やおもちゃ、絵本に、ベビーカーなど色んなもので家の中がいっぱいになりました。

また、何よりも子どもを育てる母親の姿は、これまでに見たことのない美しい姿だと思わされました。夜ゆっくりと寝る暇もなく、本当に献身的に赤ちゃんにいつも寄り添って面倒を見ています。また家内は子どものために、いつも「育児日記」というものを記すようになりました。病院から渡されたもののようですが、『わたしの育児日記』と書かれた日記帳には、毎日の赤ちゃんの記録が残されています。今日、何があったかという一日単位の記録ではありません。今日の何時に起きて、何時におむつを替えて、何時に母乳を飲んで等、たいへん細かい記録が記されていました。この記録を愛する我が子のために毎日記し続けるのです。また、産まれる前には、『母子手帳』というものをいただいて、出産までの体調の変化など、その経過を記していました。産まれる前から、これから産まれてくる我が子のために、体調を整え準備するのです。

そのような光景を見ながら、ふと、こんなことを思いました。神様も、産まれてからではなく、産まれる前から既に私のことを覚えて、大切にしていてくださったのではないかと。聖書にもこう記されています。

「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」

神様も日記帳のようなものを持っておられるのでしょうか。そこには、私たちのことが記されているのだというのです。詩編139編は、神様がいかに私たちのことをよく知っていてくださるかを語る歌です。私の全てが知られているというのは、何も隠すことができないのですから、少し恐いことかもしれません。しかし、愛と赦しに満ちた神様が、私のすべてを知っていてくださるのです。その神様の前に、自分を隠すことなく生きられるというのは、幸いなことだと私は思います。

ところで、毎日自分の子どもを見つめる度に思うことがあります。これからこの子がどういうことを経験しながら大きくなっていくのだろうかということです。もちろん楽しみもいっぱいあります。期待もいっぱいあります。でも同時に不安が募っているのも正直な思いです。本当に小さい命です。何かあったらどうしようかと思います。一日一日、神様によって生かされているのが奇跡だとしか、私には思えないのです。また、大きく成長してからも、人間は色々な経験をいたします。辛い経験をすることもあるでしょう。そのことを思うと、胸が痛くなります。

以前、私も自分のために日記を記していたことがありました。神様から与えられた一日一日を大切にしたい、そのために今日起こった出来事を忘れることなく記したいと思ったからです。しかし、嫌なこと、辛いこと、悲しいことがあると、なかなかペンを執ることができませんでした。今日起こった嫌なことは忘れたい、なかったことにしたいと思ったからでしょう。また、毎日毎日記録することは根気のいることです。正直面倒くさくなるのです。疲れるのです。詩編90編12節に「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」という詩編の言葉があるように、「神様から与えられた一日を大事にしよう」と言いながら、そのことがちゃんとできない自分の弱さを知りました。そのように、私たちの歩みは、神様を悲しませてしまうことが如何に多いことでしょうか。

また、今日を生きたという記録を残せないほど悲しみに暮れることもあるでしょう。あるいは、日記を書くことができないほど大きな病に襲われることもあるでしょう。いったいどうしたら、毎日が幸いだという日々を送ることができるのでしょうか。幸いと呼べる日々は、人生に数回しかないのであって、あとは労苦の多い日々、まったく意味のない日々だということなのでしょうか。

私は、決してそうではないと思います。確かに、人生労苦は多いのですけれども、自分の惨めさに気付かされることも多いのですけれども、なおそこで幸いだと言える人生があるのです。そのことを聖書は私たちに語っています。詩編56編9節の次のような聖書の言葉があります。

「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」

この詩を歌いました詩人は、私たちが嘆き、涙する日々すらも、ちゃんと神様は、記録に留めてくださるのだ、というのです。私はここに深い慰めを覚えます。私が私自身のことを記録に留めることができなくても、イエス・キリストを与えてくださったほどに私たちを愛してくださる神様は、私たちの嘆きと涙の日々を、御自身の大切な日々として記録に留めてくださるというのです。だから、無駄な日々というのは、決してないのです。私たちの歩みがどのようなものであっても、神様は、私たちの一日一日の歩みを心に刻んでくださるのです。「今日」というこの日も神様に大切にされている尊い一日なのです。

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