若く死ぬ人生で絶望しません

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聖書の言葉

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

新約聖書 コリントの信徒への手紙二 5章17節

保田広輝によるメッセージ

先ほどお読みした御言葉に書かれている「新しい」とは、聖書のギリシャ語の原文では「カイノス」という言葉で、質的に全く新しいものを意味します。つまり、イエス・キリストの十字架と復活は、人間を全く違った新しい人に変える力があるのです。

キリストと結ばれる生き方を始めた人は、「古いもの」は過ぎ去り、「新しくなった」と宣言されます。「古いもの」とは、罪と死に支配されている命のことです。私たち人間は、全ての人間の代表であるアダムとイヴがエデンの園で堕落した結果、自分たちではどうすることもできない罪の中に落ちてしまいました。罪のせいで、必ず死ぬようになり、神様との関係が断絶してしまいました。

でも、神様の御子であるイエス・キリストが、自分の罪のために十字架にかけられて死んでくださり、お墓に葬られて、3日目に死人の中から復活されたことを信じる人たちは、罪と死から救われて、断絶していた神様との関係が回復されて、神様の子どもとされます。

十字架で御自分の命を犠牲にしてまで私たちを救ってくださったイエス様の愛に触れて、イエス様を信じる時、その人は新しくなり、罪の赦しと死の問題の解決が始まります。死んだ後に滅びない体に復活して、天国で神様と一緒に生きていく永遠の命が与えられます。罪と死に支配されていた古い命は終わり、復活の命に生きる新しい命が始まるのです。そうして、いつもイエス様に信頼していくことで、この世にいながらも新しく創造された人間としての人生を歩んでいけるのです。

ちなみに、私はいま24歳ですが、治療法のない難病を抱えていて、延命治療をしても、余命11年と宣告されています。しかも死ぬまで進行していく難病なので、病気が進行する度に、できないことが死ぬまで増えていきます。今は24時間ずっと人工呼吸器で呼吸をしていて、手の親指以外は動かせないので、食事もトイレも着替えも、ひとりでは生活の全てが何もできないですし、やがて寝たきりの生活になります。また、病気の進行で死が近くなるにつれて、死と、死の原因である罪の恐怖を実感するんですね。だから私は、イエス様を信じて、洗礼を受けたけど、その後ちっとも自分は変わっていないなぁ、罪と死に支配された古い命のままだなぁ、と思ってしまいます。でも、同時に私はすでにイエス様によって新しくされている、と信じています。

難病の私も間違いなくイエス様と結ばれた新しい命に生きているんですね。なぜなら、イエス様を信じた私たちは、罪の覆いを取り外されて、神様と向き合っているからです。罪に覆われていれば、人間は神様の前に立つことはできません。完全な聖い存在である神様の前に、罪人の私たち人間は立つことができないからです。でも、神様の御子であるイエス様が十字架で御自分の命を犠牲にしてまで、私たちを罪と死から解放してくださいました。だから、イエス様を信じることで、罪の覆いは取り外されるのです。

コリントの信徒への手紙二3章18節にはこんな御言葉があります。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」

イエス様を信じている私たちは、教会の礼拝において、毎日の信仰生活において、聖書にある神様の御言葉を聴いて、神様にささげる賛美と祈りを通して、いつも神様の栄光を受けているのです。「栄光から栄光へ」というのは、神様との交わりを通して、私たち自身が神様の栄光を映し出していけるように造り変えられていく、ということです。栄光から栄光へと造り変えられていくのです。

イエス様と結ばれる新しい命は、永遠に継続するものですから、罪と死に支配されていた時の古さに逆戻りすることはありません。難病の私でも神様の栄光を映し出していける。だから、35歳で若く死ぬ人生でも、私は絶望しません。すでに罪と死から救われて、やがて行く天国で、完全な神様の子供として生まれ変わる復活の命に生きているのですから。どんな試練があっても、イエス様を信じた時から、もう復活の栄光は始まっているんです。日毎に私の難病の体は死に向かって衰えているけど、私は永遠の命へと復活し始めているんです。神様の子供として、永遠の命に生まれていくところなんですね。

それでは最後にSARDONYXの「Prayer To Heaven」という賛美をお聴きください。

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