水のほとりでの出会い②

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聖書の言葉

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 4章13~14節

八尋孝一によるメッセージ

私の妻の実家は熊本県の阿蘇にあります。阿蘇を訪れる度に私がよく訪ねるお気に入りの場所があります。そこは樹齢数百年を超える木立に囲まれた、水がこんこんと湧き出る美しい水源です。その水源の水をすくって飲むと、心も体も清々しい気分になるのです。

水は私達をリフレッシュしてくれるばかりではありません。水は今も昔も変わらず、私達の命の源です。とりわけ聖書が書かれた時代の乾燥地帯を生きる人々にとって、水の確保は死活問題でした。水を汲むことが出来る場所、それはいのちの鍵を握る場所でもあったのです。聖書はそのような水のほとりで様々な出会いがおこったことを記しています。新約聖書ヨハネによる福音書の4章にも、そんな水のほとりで起こった印象深い出会いが記されています。

あるときイエス=キリストが、旅に疲れて井戸のそばに座っておられました。すると正午頃、一人のサマリア人の女性が水を汲みに現れます。イエス様はこの女性に声をかけました。「水を飲ませてください」。これは何気ない日常の普通のやりとりのように見えます。しかしユダヤ人の男性であるイエス様が、サマリア人の女性に声をかけるということは、当時としてはあり得ない常識破りのことでした。この時代のサマリア人とユダヤ人は、様々な歴史的背景もあって、口もきかないほど仲が悪かったのです。実際、イエス様に声を掛けられた女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしにどうしてそんなことを頼むのですか」と驚いています。でもイエス様は、そのような民族の壁を乗り越えて、イエス様の方から出会いに来てくださったのです。

「水を飲ませてください」、これも印象深い言葉です。この言葉には、「あなたの助けが必要です。あなたは必要とされている人なのですよ」というメッセージがこめられています。イエス=キリストは、「何かお困りのことはありませんか、私が助けてあげますよ」と上から目線で語りかけたのではありません。「あなたが必要です」とおっしゃったのです。

人間にとって、だれからも必要とされていないと感じることほど辛いことはありません。実は水を汲みに来たこのサマリア人の女性も、そのように感じている人の一人でした。私たちの中にも、「私なんて誰からも必要とされていない人間だ」と感じることがあるかもしれません。しかし、イエス様は、私達のところにもイエス様の方から会いに来てくださいます。私達は、聖書の時代と時間的にも空間的にも隔てられた現代の日本で生きています。しかし、イエス様は、ユダヤ人のサマリア人という民族の壁をこえて会いに来られたように、私達のところにもあらゆる壁を越えて会いに来てくださる。そして「あなたが必要です」と声をかけてくださるのです。

さて、この女の人が井戸に水を汲みにきたのは正午ごろでした。普通水汲みはかんかん照りの昼間をさけて、朝早くか夕方の涼しいうちにするのが普通だったようです。でもこの女の人が、あえて正午を選んだのはなぜか。それは、だれとも顔をあわせたくなかったからです。誰とも会いたくない事情がこの女の人にはありました。聖書には、この女性には五人の夫がいたとあります。満たされないままに次々と夫を取り替え、今は夫とも呼べない人と暮らしている。おそらくこの女の人には、渇ききった深い苦しみがあったのです。けれどもそれを誰にも打ち明けられず、人目を避けるようにして生きてきました。しかし、イエス様との出会いは、まさにそこにおいておこったのです。

森有正という思想家が、このようなことを言っています。「人間というものはどうしてもひとに知らせることのできない心の一隅をもっております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがある。そこでしか神にお目にかかる場所は人間にはない。・・・ひとにも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神にあうことができない。」

私たちの中にも、誰にもいえない部分、明るみに出したくない、できれば見たくないところがあるのではないでしょうか。それがあると思うだけで暗い憂鬱な気分になってしまうところがあるのではないでしょうか。でも、神に会える場所はまさにそこだというのです。自分が得意になって胸をはれるところ、さあ見てくださいと誇れるところ、イエス=キリストと出会える場所はそこではない。

ひざをかがめてうずくまってしまうところ、イエス=キリストと会えるのはそこだというのです。

サマリアの女性が人目をさけて水汲みに来た井戸の傍らイエス=キリストと出会ったように、私達の中にもイエス=キリストと出会える場所が必ずあります。イエス=キリストは、あらゆる壁を乗り越えて、必ずそこに来てくださり、私たちと出会ってくださるのです。そして私達の内に、決して渇くことの無い永遠の命に至る水がこんこんと湧き出る泉を備えてくださるのです。

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