水のほとりでの出会い①

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聖書の言葉

神は子供の泣き声を聞かれ、天からの御使いがハガルに呼びかけていった。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。」

旧約聖書 創世記 21章17節

八尋孝一によるメッセージ

私がクリスチャンになって間もない頃、ある方から一枚の小さなカードをいただきました。そのカードには、印象深い一枚の絵が印刷されていました。その絵には、荒れ野の中で顔を手で覆い、泣きながら立ち尽くす一人の若い女性と、その腰に抱きついている一人の不安げな少年が描かれていました。

この絵に付いていた題は、「ハガルとイシュマエル」。この絵の題材となった、旧約聖書創世記21章に出てくるハガルとイシュマエル、それはこのような物語です。

イスラエル民族の族長アブラハムにはサラという妻がいました。サラと夫アブラハムとの間には、なかなか子どもが生まれません。そこでサラは、跡継ぎをもうけるため、自分が所有していた女奴隷のハガルを側女としてアブラハムに与えます。こうしてアブラハムとサラの女奴隷ハガルの間に男の子が生まれ、その子はイシュマエルと名付けられました。このまま行けば、このイシュマエルがアブラハムの跡継ぎになるところでした。

ところがその後、神様はサラを顧みて下さり、サラは年老いてからアブラハムとの間に男の子を産みます。これがイサクです。こうなると、サラは自分が産んだ我が子イサクこそが跡継ぎになるべきだと強く思います。先に女奴隷ハガルが産んだイシュマエルは、もはや我が子を脅かす邪魔な存在でしかありません。ある日サラは、女奴隷ハガルとその子イシュマエルを追放するよう、夫のアブラハムに強く迫ります。アブラハムは非常に苦しみます。

感情と感情がぶつかり合い、すれ違い、板挟みの中で騒動が起きる。現代の家庭でもしばしば見られることです。聖書は「美しいきれい事」ではなく、このような人間の「どろどろした現実」をしばしば描き出すのです。苦しんだ末、アブラハムは、神様のご計画にも促され、パンと水の入った革袋を与えて結局ハガルとイシュマエルを追放します。追い出されたハガルとその子イシュマエルは荒れ野をさまよいました。

荒れ野の暑さは二人の体力を奪います。水分補給が大切なのですが、革袋の中の水もやがて無くなってしまいました。ハガルは目の前で子供が死ぬのを見るのは忍びないと言って、イシュマエルを一本の木の下に寝かせると、そこから離れたところに子供の方を向いて座り込み、声をあげて泣きます。彼女には、もう泣くことしかできませんでした。それを見て子供のイシュマエルも泣く。荒れ野に母と子の泣き声が響きます。もはや死を待つしかない、絶望的な状況です。

ところが、聖書はこの場面に続いてこう記しています。「神は子供の泣き声を聞かれた。」神様が子供の泣き声を聞かれたというのです。続いて天から神の御使いがハガルに呼びかけて言いました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい。」神様は子供の泣き声を聞かれ、泣いていたハガルに呼びかけてくださったのです。

私はこの箇所を読む度に深い慰めをおぼえます。この場面で母と息子は助けを求めて神様に祈りをささげたのではないのです。祈ることなんて出来ませんでした。ただ泣くことしかできなかったのです。しかし、神様は、そんな言葉にすらできない泣く声を、声にならない叫びを聞かれたというのです。この後、神様がハガルの目を開かれたので、ハガルは水のある井戸を見つけます。水のある井戸、それは命のある場所です。ハガルはそれを自分で探し当てたのではありません。神様によって目を開かれて、水のある井戸を示されたのです。

日本で「目が開く、何かに開眼する」というと、自分で修行してマスターするという感じですが、聖書で「目を開く」と言った場合、その主語は神様です。自分で目を開くのではない、神様が目を開かせてくださるのです。それはもっと居心地の良い、他の場所を指し示すためではありません。自分がもうこんなところには救いはない、もうここは泣き叫ぶしかない荒れ野のような場所だと思っていたその場所に、水のある井戸があるのだ、命があふれ出す場所があるのだ、それを示すためです。

私たちも時として様々な感情がぶつかり合う状況の中で、荒れ野のような場所に置かれることがあります。もう泣くことしかできないという状況に陥ります。しかし、そのような中で、私たちの泣く声を、神様は聞いてくださるのです。そして「恐れることはない」と呼びかけてくださるのです。神様はそこから救いの御業を始められます。

それは私たちの目が新しく開かれることから始まります。私たちが古い目のままで周囲を見渡すならば、もはや泣き叫ぶことしかできません。しかし、神様によって目を開かれるとき、この荒れ野のような現実の中にも、いやこのような現実の中にこそ水の出る井戸がある、命に通じる場所があることを示されるのです。神様に目を開いて頂いて、新しい目で現実と向き合うとき、いつもと変わらないその場所が、命あふれる場所になるのです。

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