神様が奏でる音

ラジオ放送 キリストへの時間のトップページへ戻る

聖書の言葉

わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。

旧約聖書 詩編 40編4節

藤井真によるメッセージ

最近、こんなニュースを聞きました。「シャ乱Q」という音楽グループのボーカリスト、“つんく”という人が、がんの治療のために声帯を摘出したと、自らと公表したというニュースです。つんくさんは、自分のバンド活動だけではなく、いくつかのアイドルグループのプロデュースも手掛けている名プロデューサーでもあります。私が学生時代の頃には、つんくさんの歌や、彼が作った数々の音楽が流行っていて、私もよく聞いていただけに、このニュースを知った時は、たいへん驚きました。

音楽の活動、しかも、歌を歌う仕事をしている者にとって、声が出せなくなるということは致命的なことでしょう。自分で曲を作ることはできるかもしれません。自分で歌詞を作ることはできるかもしれません。しかし、その歌を自分で奏でること、自分の口で奏でること、歌うことはもうできないのです。またプロデューサーとして、自分の作品を自分の口で上手く伝えることもできなくなります。歌手であり、音楽活動に人生を捧げてきたつんくさんにとって、声帯を摘出するというのは、私たちの想像を超える辛い決断だったと思います。でも、つんくさんは言うのです。「私は声を捨て、生きることを選んだ」と。

歌手にとって、歌うこと、歌い続けることは、生きることそのものです。つんくさんにとって、生きることは、歌うことだったと思います。リスナーの皆様の中にも、今、何かの仕事や様々な働きをしながら生活している方がたくさんおられることでしょう。その仕事が自分に合っている、合っていない。好きか嫌いかは別にして、働かずには生きていけない現実があります。また、お一人お一人違うかとは思いますが、それぞれに、自分にとっての生き甲斐、あるいはやり甲斐というものを持っているのではないでしょうか。これがあるから、これを続けることができるから、人生は確かに大変なことも多いけれども、頑張って生きていけるんです、というものを持っているのではないでしょうか。仕事であったり、趣味であったり、家族や友人などの人間関係であったり、これがあるから生きていけるというものを持っているのではないでしょうか。

しかし、もしそれらが突然失われたらどうでしょうか。失わざる得ない状況に追い込まれたらどうでしょうか。それらの生き甲斐を失って、なお私は生きていると、誇りを持ってそこで立ち続けることができるのでしょうか。ある人はこう言うかもしれません。「私はもう生きている意味がない」と。でも、歌手のつんくさんは言います。「私は声を捨て、生きることを選んだ」。生き甲斐を捨て、生きることを選んだということです。もちろん、声を失って、話すことができなくなっても、様々なかたちで音楽活動を続けることはできるかもしれません。「こんな自分だからこそ、自分にしかできないことをしていこうと思う」と、つんくさんは言っていました。

私自身、この知らせを聞いて、改めて考えさせられたことがあります。生きるということと、生き甲斐とは必ずしも結びつかないのだということです。たとえ、生き甲斐を失ったとしても、生きる道があるのだということです。それは簡単ことではありません。想像するだけでも辛いことです。大きな葛藤、苦悩に悩まされることでしょう。でも、そこでなお生きる道があるということです。

聖書を読んでみますと、神様を信じる人たちはよく歌を歌っていることにすぐに気付かされるのです。「新しい歌を主に向かって歌おう!」そう言って、神様に賛美の歌を捧げます。教会の礼拝に出ますと、必ず賛美歌を歌います。神様に感謝したり、神様にお願いしたり、お祈りしたり、頼ったり、そういった私たちの思いを歌に乗せて、賛美の歌を歌うのです。そして、歌を歌うことは、私がすること。私たちがすること。あくまでも、主体は私なのです。私が歌い、私たちが歌うのです。

でも、先程お読みした聖書の言葉にはこのようにありました。「わたしの口に新しい歌をわたしたちの神への賛美を授けてくださった」。この言葉を聞いていて気付かされることがあります。私が神様に歌うのではないのです。私が神様に歌っているのですけれども、その歌を私の口に授けてくださったのは、神様だと言うのです。神様に新しい歌を歌うというということよりも、神様が私の口に、歌を与えてくださる。その恵みをほめたたえています。

この詩編40編全体を読むと分かることがあります。この歌、祈りを作った人は、神様に叫ばざるを得ない状況に置かれていたということです。「主にのみわたしは望みを置いていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ…」(2節)と始まっていきます。この歌を作った人は言います。「滅びの穴」「泥沼」にはまっていた。泥沼というのは「陰府(よみ)」と呼ばれる場所です。自分の力では絶対に這い上がることができない場所、救いようのない場所です。でもそこから叫ぶ私の声を聞いてくだる方がいる。聞いてくださるだけではなく、泥沼の中から私を引き上げてくださる方がいると!そして、このように続けます。「(主は)わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ…」(3節)。あなたが立っている場所は泥沼のような場所ではない。あなたを苦しみの奥に引きずり込む力が支配しているのではない。そうではなくて、あなたの足は今、神が備えてくださった「岩の上」にある。崩れることのない確かな土台の上を歩いていると!「岩」というのは神様ご自身のことです。神様に支えられて、生かされる喜びを歌うのです。

神様があなたの歩みを今週も下から支えてくださいます。歌を楽しく歌うことができないほどに、辛くてたいへんな状況、それ自体はまだ残り続けているかもしれません。生き甲斐を失っているかもしれません。でもそういった人生に、そういった閉じた心の中に、神様は新しい歌を授けてくださいます。自分が作り出す歌ではなく、自分の心の中から自然に湧き出て来る歌ではなく、神様が与えてくださる歌の中を、神様が奏でてくださる新しいメロディーの中を、生きることが許されています。それが主イエス・キリストを信じて生きる人の幸いです。今、嘆きや悲しみで口や胸が塞いでいる方がおられるかもしれません。神様があなたを救い出してくださいますように。そして、神様があなたに新しい歌を授けてくださるように心から祈ります。

関連する番組