ハイジとキリスト教信仰その②

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聖書の言葉

ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」

旧約聖書 創世記 50章19~20節

藤井真によるメッセージ

先週に引き続き、スイスの作家ヨハンナ・シュピーリという人が書きました『ハイジ』という作品の中に記されていますキリスト教信仰の姿についてお話したいと思います。

どの物語においても、「名場面」と呼ばれるものがあります。有名な作品であれば、あるほど、その名場面や感動の場面と共に、人々の脳裏に記憶されていることでしょう。では、『ハイジ』における名場面とは、どの場面なのでしょうか。それは、言うまでもなくクララという足の不自由な少女が立ち上がって歩き出す場面だと思います。テレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」では、その感動の場面だけがよく切り取られて、今でもテレビを通して見ることがあります。

ところで、アニメと原作とでは内容が少し違っているところがあるということをご存じでしょうか。クララが立つ場面もその一つです。アニメでは、立って歩く訓練をして、その結果立つことができるようになるのです。そのために、ハイジも、友だちのペーターも、そしておじいちゃんも懸命に励まし支えるのです。しかし、原作はそのように書かれているのではないのです。著者が伝えたいのは、どうも頑張って、練習をして、やっと立つことが出来るようになったということではないようです。あるいは、周りの人たちの献身的な支えがあって立つことができたということでもないようです。もちろんそういう人間の姿は感動的なのですが、原作に立ち返って読んでみますと、著者はもっと信仰的なメッセージを伝えようとしていると思えてならないのです。

クララという少女は、元々スイスのアルプスの山に住んでいたわけではありません。ドイツのフランクフルトという街のお屋敷に住んでいたお金持ちの少女でした。しかし、幼い頃から足の不自由なゆえに、退屈な日々を送っていたのです。そこに、遊び相手として連れて来られたのが、ハイジでした。クララはハイジとすぐに仲良くなり、毎日がとても楽しくなったのです。時が過ぎ、やがてハイジはおじいさんが住んでいる山に戻ることになったのですが、しばらくして、そこにクララが会いにやって来て、一緒に住むことになったのです。ハイジはクララに毎日付きっきりで、面倒を見続けるのです。

でも、一方で、クララがやって来たことを快く思っていなかった人がいました。昔からハイジと仲良くしていたペーターという少年です。クララが山に来たせいで、ペーターはハイジと遊ぶことができなくなったのです。ペーターの心の中に、段々と怒りが込み上げてきます。クララさえいなければ、これまでのようにハイジと遊ぶことができるのに。クララなんかここからいなくなればいいのだという憎しみが少年の心を支配するようになりました。ある日、外にクララの車椅子が置いてあるのを見つけます。車椅子さえなければ、クララはここで生きていくことはできないはずだ。自分の街に帰らなければいけなくなるはずだと思って、その車椅子を崖の下に突き飛ばすのです。一瞬にして、車椅子はバラバラになってしまいました。テレビアニメでは語られていませんが、原作では、そういう人間の悪、あるいは罪の姿を明確に描いているのです。

しかし、ここから不思議なことが起こります。ペーターが犯した罪というのが、思いもしなかったところに向かうのです。つまり、ペーターの思い通りに、クララは街に帰ることはなかったのです。それどころか、車椅子が壊れたことをきっかけにして、クララは立って歩くことができるようになったのです。クララは、山にあるお花畑が見てみたいと言い出して、それで、ハイジとペーターに支えられながら、一歩一歩前に進んで行くのです。そして、その途中で、クララは独りで立って歩くことができるようになったのです。

著者が伝えたいのは、ペーターがした悪いことが、結果的には善いことに変えられたということです。つまり、クララが立つことができたという素晴らしい出来事に変えられたということなのです。しかしそれは、決して、たまたまそうなったとか、運がよかったということではありません。神様というお方は、人間の悪と罪をそのまま放っておかれる方ではないということです。悪というものを、善に変える力があるお方だということなのです。

私たちは自分自身が犯す罪のゆえに、あるいは誰かの悪によって傷つけられることによって、人生が滅茶苦茶になってしまうことがあります。あるいは、思いもしなかった辛い出来事が嵐のようにして、これまでの人生の歩みを呑み込んでしまうということがあるかもしれません。

冒頭でお読みした聖書の言葉は、ヨセフという人が語った言葉ですが、彼は自分のお兄さんたちの悪によって、若くして人生の歯車が狂いました。しかし、長い年月を経て、気付かされたことがありました。神様は悪を善にかえられたのだ。おかしな言い方かもしれないけれども、お兄さんたちの悪によって、結果的に多くの人たちの命が救われた。神様の救いのご計画というのは、こういう人間の悪や罪の中を貫いて、私たちのところにもたらされるのだ。そのことに気付き、神様を賛美しました。

たとえ、今、私たちが自分の罪によって苦しんでいたり、誰かの悪によって苦しめられていたとしても、神様は必ず善いことに変えてくださるお方です。祈っても祈っても、願いが聞かれないとこいこともあるかもしれません。しかし、きっと善いことをあなたの人生の中で始めようとしておられるに違いありません。そういう素晴らしい時が与えられますように、私も皆様のためにお祈りしています。

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