1年中クリスマス!

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聖書の言葉

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリヤは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

新約聖書 ルカによる福音書 2章6~7節

八尋孝一によるメッセージ

私が所属している教会は、毎週日曜日の朝、こどもたちと一緒に神様を礼拝する日曜学校を開いています。教会のホームページに日曜学校のことを紹介する次のような文を書かせていただきました。

「今、社会や学校ではこどもたちを取り巻く環境に、厳しさが増しています。『自分の居場所はどこにもない。自分なんか、いてもいなくても同じ』と感じ、自分本来の居場所や自分の本当の価値を見失ってしまうこどもたちも多くいます。そのような中で、わたしたちは、聖書を通じ、こどもたちひとりひとりが、個性や能力は違っても、『神さまに愛されている存在、かけがえのない神さまの宝物である』ことに気付いて欲しいと祈り願いながら、毎週日曜日朝9時から、日曜学校をおこなっています。」

「自分の居場所などどこにもない」・・・今日、そう感じているのはこどもたちだけではありません。

おとなたちもまた、そう感じている方が大勢おられるのではないでしょうか。5月も終ろうとしています。この4月、新たな希望と決意を抱いて新しい学校や職場での生活をスタートした方々の中には、こんなはずではなかった、自分の本当の居場所はここではなかったのではないかと感じ始めておられる方もいらっしゃるかもしれません。病や孤独な生活の中で、居場所を失ったと感じておられる方もいらっしゃるでしょう。災害や戦争、差別や迫害、貧困によって、暴力的に自分の居場所を奪われた方々も世界中にあふれています。

居場所の喪失は、現代に限ったことではありません。聖書が書かれた時代にも、そのような方々が大勢いました。新約聖書には、居場所を失った人々が大勢出てきます。病や障害の故に社会から締め出された人々、職業故に人々から軽蔑されていた税を集める徴税人も出てきます。イエス=キリストは、このような居場所を失った方々のところをたずねて歩かれました。何よりもイエス=キリスト御自身が、居場所のない人としてお生まれになったのです。先ほどお読みした聖書の箇所は、クリスマスによく読まれます。住民登録をするために訪れていたベツレヘムで、身重になっていたマリヤが初めての子を産み、その子を布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせました。なぜ家畜小屋の飼い葉桶に寝かされたのかというと、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」からです。聖書は「彼らには場所がなかった」と記しています。イエス=キリスト御自身が、場所のない方になられたのです。神の御子である方が、神の御子としてのその本来の場所をうち捨てて、場所のない方となられました。それは何のためでしょうか。居場所を失っている者に、居場所を与えるためです。主イエス=キリストは、居場所を失っている者に居場所を与えるために、居場所のない者として来られたのです。

聖書は今日お読みした箇所に続いて次のように記しています。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」羊飼いたちは、ここで野宿をしています。彼らにも落ち着いて眠る場所がなかった。当時の羊飼いは、社会的にも様々な差別を受けていたようです。羊飼いも居場所のない人達でした。しかしそんな羊飼いのたちのところに、突然主の天使が現れて、こう告げるのです。「今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。」あなた方のためです。居場所のないあなた方のために救い主が生まれた。天使は居場所のない羊飼いにこそ、真っ先にこう告げたのです。やがて羊飼いは、飼い葉桶に寝かせてある幼子イエスを探し当て、神をあがめ、讃美しながら帰って行きました。羊飼いは帰って行きました。どこかよそに行って新しい居場所を見つけたわけではありません。元の羊飼いとしての場所に帰ったのです。しかし羊飼いにとっていつもと変わらぬその場所は、新しい場所になったことでしょう。なぜなら、そこは主イエスが共にいてくださる場所であるとわかったからです。主イエスが共にいてくださる、そのことに目が開かれたとき、いつもと変わらぬその場所が、私たちの本当の居場所になります。主イエスに出会うとき、私たちは羊飼いたちと同じように、神をあがめ讃美しながらいつもの場所に帰っていくことができます。もはや居場所のない人、いてもいなくても同じ人はいません。なぜならそこに主イエスがおられるからです。主イエスは私たちひとりひとりの名を呼んでこのように招いておられます。「居場所のないあなたのために私は来た。ここにあなたの居場所がある。私のもとに来なさい」。遂に私たちの本当の居場所が与えられた!これこそがクリスマスの喜びです。そしてこの喜びは、12月のクリスマスの時だけで終わるものではありません。なぜなら主イエスは一年中、いや私たちの生涯を通じて、私たちがこの世の生涯を終えた後までも、変わること無く私たちの側にいて場所を与えてくださるからです。そして、主イエスが与えてくださる私たちの居場所は、どんな力もこれを奪うことはできません。暴力も貧困も抑圧も襲い来る突然の苦難も、主イエスが与えてくださる居場所を私たちから奪い去ることはできないのです。主イエスは、何があっても私たちの側にいて、場所を与え続けてくださいます。ですから私たちは一年中こう言えるのです。「みなさん、クリスマスおめでとう!」

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