たとえ夢が叶わなくても

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聖書の言葉

わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 14章7~9節

藤井真によるメッセージ

今朝も先週に引き続き1冊の絵本を紹介したいと思います。今日、紹介するのは、『3本の木』(いのちのことば社)という小さな絵本です。元々は遠いどこかの国の民話だそうです。作者が誰なのかは分かりません。けれども、親から子へ、またその子らへと語り継がれ、愛された物語です。

「はるか遠い昔、ある山の頂に三本の木が育っていた。三本の木は、大きくなったときに何になりたいか、それぞれに夢があった。」そのような言葉で、物語が始まっていくのです。三本の木が抱いていた夢はどんな夢だったのでしょう。最初の木は、宝石や宝物を入れる世界一美しい箱になりたかったようです。二番目の木は、世界一頑丈な帆船(船)に。そして最後の三番目の木は、このように自分の夢を語ります。「わたしはこの山の山頂から動きたくないわ。やがて、わたしの背丈が伸びて、人々が梢を見上げるとき、天に目を向けて、神様のことを考えてほしいの。だから世界中で一番背の高い木になるつもりよ。」三本の木は、それぞれ、美しい宝箱に、強い船に、世界一高い木になりたい。そのような夢を持っていたのです。

やがて、三本の木は切り倒されます。いよいよ、自分たちが描いていた夢が実現するのだという思いでいっぱいになりながら、切り倒され木材にされた木は、大工職人の元へと運ばれて行ったのです。さて、彼らの夢は叶ったのでしょうか。残念ながら思い通りにはいかなかったようなのです。最初の木は、宝箱になりたいと願いながら、実際は、家畜の餌を入れる箱になりました。二番目の木は、頑丈な船になりたいと願いながら、実際は、どこにでもあるような漁船になったのです。三番目の木に関しては、木こりに切り倒された時点で、夢は途絶えました。神様を指し示す世界一の木になることはできませんでした。その後も、何かに用いられるわけではなく、木材小屋の隅っこに置かれたままなのです。

夢を持つこと。それは絵本の物語に出てくる三本の木だけのことではありません。何よりも私たち人間が、それぞれに夢というものを抱いています。そしてその夢を実現するために、努力をします。「夢追人」という響きのいい言葉がありますように、人は夢を追い続け、やがてその夢を自分の手の中に収めます。自分の夢を叶えることと、人生の成功を収めることが、一つに重なるとき、人は幸せなのだと多くの人たちが考えています。でもどうでしょうか。夢を叶えることだけが幸せな生き方なのでしょうか。夢追人として一所懸命走り続けながら、いつまでたっても、その夢を捕らえることができないこともあるでしょう。夢だけが大きくなり過ぎて、それを追っている自分が、最初は格好よく見えていたのに、時とともに、段々とそんな自分が惨めに見えてくることもあるかもしれません。夢を実現することができた人だけが幸せで、実現することができない人は不幸だ。そのような価値観がこの世界には溢れています。でも本当にそうなのでしょうか。必ずしも、皆が皆、夢を叶えることができているわけではありません。だとしたら、その夢を叶えることができなかった、私の人生というのは、失敗した人生なのでしょうか。夢を叶えることができなかったという現実の中に立たされた時、その先にある残りの人生は、ただ諦めるようにしてでしか生きることが許されないのでしょうか。もしそうであるならば、それはとても辛いことなのではないでしょうか。

ところで、先程の絵本には、まだ続きがあります。夢を叶えることができなかった三本の木は、いったいどうなったかと言いますと、実は、不思議な形で、それぞれが用いられていったのです。家畜の餌を入れる飼葉桶になった最初の木は、今から約2千年前、ベツレヘムという小さな村でお生まれになった救い主イエス・キリストを寝かせる箱として用いられました。漁船になった二番目の木は、ある日、イエス・キリストと弟子たちを乗せて、湖を渡りました。途中、大きな嵐に遭って、弟子たちは慌てふためくのですが、主イエスは嵐に向かって「静まれ」と叫ばれると、嵐はおさまったのです。最後に、夢が叶えられなかったどころか、ただの柱として、小屋の端に置き去りされていた三番目の木はどうなったのでしょう。三番目の木もまたキリストのために用いられたのです。救い主であるイエス・キリストは、人々に捕らえられ、裁判によって、十字架刑に処せられることが決まりました。三番目の木は、キリストがつけられるその十字架の柱となったというのです。やがて人々は、その木が世界一高い木になることに遥かに勝って、十字架を見る度に神様の愛を心に刻むことができるようになったのです。

お気づきの通り、三本の木はすべてイエス・キリストのために用いられました。最初に抱いていた夢は実現できませんでしたけれども、イエス様のために、神様のために用いられることの中で、何にも代えがたい幸せを見出していったのです。私は夢を叶えることができなかった。だから自分の人生には納得が行っていない。後はもうただ諦めてでしか生きていくことができないというのではなくて、そういう私たちの人生の中に、聖書が証しします真の救い主イエス・キリストはお生まれくださいました。「あなたの人生は失敗ではないのだ。あなたが与えられた命を本当に喜んで生きることができるために、わたしはあなたの心の闇を背負って、十字架に向かうのだ。」イエス・キリストの歩みの中に、そこに込められた神様の思いの中に、あなたが包まれる時、あなたは新しい自分を見出すことができるのだ、と聖書は告げています。神様の大きな愛を指し示す十字架の光に照らされ、美しく輝いている自分を大切にしながら、この週も歩みを重ねていきましょう。

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