すべてが益になる恵み

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聖書の言葉

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章28節

藤井真によるメッセージ

今、お読みした言葉は、多くのキリスト者が愛している聖書の言葉の一つです。今日、はじめてこういう聖書の言葉を聞いたという方がおられるかもしれません。どのような感想を抱かれたでしょうか?「ああ、いい言葉だなあ」と思われた方もおられるでしょう。例えば、「万事が益となる」という印象深い言葉がありました。「万事が益となる」そう聞きますと、「それは本当に素晴らしいことだ」。私の人生の中に起こってくる「万事」が、つまり、ありとあらゆることが益となる。こんなに嬉しいことはないではないか。そうだったら、私もキリスト教会に行ってみようかな。キリストを信じてみようかな。そんな思いを抱かれた人もいるのではないでしょうか。しかし、一方で、「万事が益になる?」そんな上手い話がこの世にあるものか!この聖書の言葉を書いた人は、何もこの世の現実が分かってはいない!世の中そんな甘いものじゃない!キリスト者がそんなことを本気で信じているとするならば、笑うしかない話だ!そう反発するような思いで、この聖書の言葉を聞かれた方もおられるかもしれません。

でも、少し冷静に考えてほしいのです。たとえ、万事が益なるなんて嘘みたいな話はない。そう思っている人でも、その嘘と思っているようなことが、もし本当になれば、つまり、ありとあらゆることが、私にとって「益」となるならば、こんなに素晴らしいことはないと思うのです。事実、キリスト者たちは、この聖書の言葉を信じて生きています。この聖書の言葉が好きだというキリスト者の方は、「万事が益になるわけはない!」最初はそう思っていたかもしれません。けれども、キリストを信じて、歩み始めてみると、自分でも想像もつかなかった出来事が次々と起こる。もちろん、一般的に、喜ばしい出来事ばかりではなかったかもしれません。周りの人の目から見れば、ああなんて可哀想なんだと、哀れに思われることであったかもしれません。「益」どころか、「損」でしかない、「マイナス」にしか見えない出来事であるかもしれません。でも、キリスト者は、そのような境遇に置かれているそのただ中で、キリストの言葉を聞き、生きる力が与えられていきました。

では、キリスト者が信じる「万事が益となる」とはいったいどういうことなのでしょうか。昨年の10月に私が担当した放送でも、少し紹介させていただいたのですが、河野進というキリスト者であり、またキリスト教会の牧師であられた方の詩を今回も紹介したいと思います。その信仰の詩を通して、万事が益となるとはどういうことかを、考えてみたいのです。

今朝、紹介する詩は、「病む」という詩です。こういう言葉が綴られています。

病む

病まなければ

聞き得ない慰めのみ言葉があり

捧げ得ない真実な祈りがあり

感謝し得ない一杯の水があり

見得ない奉仕の天使があり

信じ得ない愛の奇跡があり

下り得ない謙遜の谷があり

登り得ない希望の山頂がある

病にかかる、病気になるということは、一般的には辛いこと、苦しいことだと考えられています。命に関わる大病、不治の病にかかったときは、なおさらのことでしょう。治療のための日々も、たいへんな忍耐が強いられます。どうして私が、病に苦しめられなければいけないのか。そのような問いが、自分の心の中で渦巻き、答えが見つからない中で、自分の人生を呪うこともあるかもしれません。

しかし、河野さんは、病という辛い状況を、キリストに対する信仰において、新しく捉え直しています。「~しなければ、~だったのに…」と、後悔と諦めの念に捕らわれるのではなくて、「~しなければ、得ることができなかった恵みがあるのだ」と、詩の中で繰り返し語ります。私は、今、病の中にあり、とても辛いのだけれども、まだ先行きもはっきりせず不安なのだけれども、しかしそうであるからこそ見えてくる神の恵みがあるのだと言うのです。そして、それらの恵みは、病にならなければ、決して、知ることがなかった恵みだと言います。だから、病になったことが、実は、私にはよかったのだと。

試練に陥った時、そしてそこから中々抜け出すことが出来ずにいるとき、私たちはいったいどうするでしょう?何事もマイナスに考えてはいけない!プラス思考で考えなければいけない!そのように自分で自分に言い聞かせて、その状況を何とか乗り切ろうとする人もいるでしょう。それがわるいとは言いません。自分の心を上手くコントロールすることも大事なことでしょう。

でも、河野さんの詩が語っていることは、単なるポジティブシンキングということには留まりません。自分で自分に良い言葉を語り聞かせるのではないです。キリスト者は、自分の言葉ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生かされることを知っています。自分の「内」(なか)にある言葉ではなく、自分の「外」から語り掛けられてくる言葉によって生かされていることを知っているのです。だから河野さんは語ります。「病まなければ聞き得ない慰めのみ言葉がある」と。健康な時には、聞こえなかった神の言葉。いや、知ってはいたのだけれども、自分を本当に生かす言葉として聞き得ていなかった神の言葉を、病の中において、自分に迫ってくる言葉として、新しく聞いたのです。健康の時には、神さまと真っ直ぐ向き合って祈ることができなかったけれど、病になって、はじめて神さまに祈りをささげ、自分を神さまに委ねることができるようになったのです。

また、この詩の中で「得」という漢字が、繰り返し用いられていることに気付かされました。「なぜこんなことに…」という状況下にあっても、「得すること」「得る」ことができる確かな恵みがあるのだと言います。病になることは「損」することではありません。むしろ「得」をすることなのだと大胆に語ります。キリスト教信仰は、いわゆる御利益宗教ではありませんが、キリストを知ることによって与えられる「益」や「得」は、私たちの心では計り知ることはできないものがあります。こんなことになって何の得があるのかと思われるそのところで、得ることができる恵みを、神さまは与えてくださいます。それほどに神さまの恵みはしたたかなのです。

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