私の目から見たクリスチャンの姿

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聖書の言葉

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

新約聖書 フィリピの信徒への手紙 4章11~13節

梅野恵によるメッセージ

大阪の千里摂理教会の梅野恵です。このラジオを通して皆さんとつながれることを嬉しく思います。今日も一日それぞれの場所で祝福がありますようにお祈りしています。

さて、これから一つの恵みについてお話ししたいと思います。みなさんは、“教会、クリスチャン”と聞くとどのようなイメージをもたれますか。信じるものがあって心が強そうだ、自分とは違う世界、敷居が高い、神聖そう、それぞれイメージをおもちでしょう。私の目から見た“教会、クリスチャン”を紹介したいと思います。

私の生まれは岡山で、物心ついたころから、日曜日は教会で過ごすという一週間のサイクルを過ごしていました。聖書の神様はいて、その神様は生きておられ、いつも神様は私たちを愛して下さるということを自然に知って成長しました。

ただ、わたしの家はどうも周りの家庭と少し違う…そう感じながらも、周りには言えず息が詰まった日々を過ごしていました。

わたしの父はアスペルガー症候群という発達障害をもっています。これは知能や言葉に遅れはないものの人とのコミュニケーションが非常に苦手であるという特徴をもっています。わたしの父が、アスペルガーであることが分かったのは今からほんの10年前の50歳ぐらいのときで、当時家庭内はボロボロでした。父にとって社会に出で継続して他の人と協力し、働くということは困難で、ほぼ一日家で過ごすという生活が続いていました。そのため、母が働き、子どものわたしたちから見ても苦しい生活がめにみえて分かりました。父は一度、火がついたように怒りパニックになると誰もが手がつけられないようになり、その度、手や足がでていました。それは家庭内暴力といっても、過言ではないぐらいで、いつも父親がいなくなってしまえばいいと心から思っていました。そうすれば、こんな苦しい生活をしなくてすむのにと思っていたのです。“神様、この苦しい状況から助けてください!!”ずっと、ずっと何年もお祈りしていましたが、神様はその私の祈りに答えては下さいませんでした。その当時はそう思っていたのです。私はそんな父との生活に耐えられなくて、中学校卒業と同時に家を逃げるようにでていきました。はじめは祖母の家へそれから県外の専門学校に入学し、就職、結婚、と家にはまったくよりつかなくなったのです。地元の岡山に帰っても父と顔を合わせるのが嫌でいつも祖母の家に帰っていました。

発達障害をもっているといっても、それぞれ性格や環境によって違いますが、私の父は周りが驚くほど、こだわりをもっていたり、自分の日常生活の時間、体調の管理も苦手だったりします。今日は起きれないからといって、教会に行ったり行かずの習慣が続いていますが、不思議なことに教会にだけはつながっています。子どもである私が、こんな父親知らないとさじを投げたにもかかわらず、教会の方は常に変わらず父をむかえいれてくれました。

時々、教会で聞く父の様子は、耳が痛いときもありましたが父親らしいなと思う、心が少し和むものもありました。周りの雰囲気を読めず、突然まったく違う話を始めたり、相手があまり興味がない話でも自分の好きな話をずっと一方的に話したり、心に思っていることをすぐ口にだしてしまう父。ストレートすぎて相手の心を傷つけ泣かしてしまったり、怒らせてしまったり、嫌な顔をさせてしまったり、ほんとため息がでます。

それでも教会の方は「裏、表のない素直なお父さんよ。お父さんにもいっぱいいい所があるのよ」と話してくれます。私の知らないところで父との間でいろいろあったでしょう。それでも、見捨てず忍耐強く何十年も父とわたしたち家族につきあってくれる教会の方に心から感謝しました。

教会では同じキリストを信じて、つながれたものとして○○兄弟、○○姉妹と呼び合います。本当にそれは呼び合うだけではなくて、家族と同様な関係です。昔、誰も助けてくれない、孤独だと思っていた頃、思い返してみると確かに教会の方、神様が側に寄り添ってくれていることに気がつきました。毎晩、仕事で遅い母、教会の姉妹が晩御飯を作ってもってきてくれました。家で暴れている父、母とわたしたち子どもは家にいることができず牧師先生家族が家に迎え入れてくれました。いつも私たち家族のことをおもい、祈り、愛をもって接してくれていました。それは神様を信じるクリスチャンの姿を無言の態度でしめしてくれたような気がします。

これがわたしの目から見た、教会、クリスチャンです。これは大人になるほど実感してわかったことですが、自分の生活をぬけて他人をこれほどまでにおもうことはなんと難しいことでしょう。それでもその難しいと思うことを義務感やいやいやではなくて喜んでしている。ここに神様の愛がうつされているように感じます。

今日もいろんな思い、生活をかかえてひとりひとり教会に集められ礼拝がまもられます。最近、教会にいってない、教会にいったことないけど一度いってみたい、そう思われたかたはぜひ教会におこしください。わたしたちはお待ちしています。わたし自身、みなさんと会えることを楽しみにしています。今日も一日、みなさんの上に豊かな恵みが与えられますようにお祈りしています。

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