ぞうきんのように

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聖書の言葉

食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章4~5節

藤井真によるメッセージ

2012年からよく売れている本で、渡辺和子さんというカトリックの方が書かれた『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)という本があります。幸いにも今もまだよく売れているようです。ある本屋に行くと、その関連で、渡辺さんの本の横に、こういう本が並べられていました。『ぞうきん』(幻冬舎)という詩集です。この詩を書いたのは、河野進というキリスト者(牧師)です。岡山県にある岡山ハンセン病療養所での慰問伝道に50年以上仕えてこられました。

ところでなぜ、渡辺さんの本の横に並べられていたのかというと、おそらく、その本の「まえがき」を書いているからでしょう。その一部を、河野さんの詩を含めて紹介します。

天の父さま

どんな不幸を吸っても

はく息は感謝でありますように

すべては恵みの呼吸ですから

渡辺さんは言います。

この詩を手にした当時の私は、多分自分を“不幸”というバイキンのただ中に置かれた不幸いっぱいの人間と考えていたと思います。「なぜ、こんな馴れない土地で、難しい仕事をしないといけないのだろう」「こんなはずじゃなかった」という思いが顔にも出ていたのでしょう。そんな私に、神は、その人の力に余る試練を与えないこと。不幸に思えることも“恵み”以外の何ものでもないという信頼。また、人間には、吸い込んだ不幸を、感謝に変える力が与えられていることを教える励ましの詩でもありました。

もう一つ、河野さんの詩を紹介したいと思います。先程紹介した本のタイトルとなっている「ぞうきん」という詩です。

ぞうきん

こまった時に思い出され

用がすめばすぐに忘れられる

ぞうきん

台所のすみに小さくなり

むくいを知らず

朝も夜もよろこんで仕える

ぞうきんになりたい

詩というのは聴き手のイメージを膨らませる力があります。子どもにも紹介したい詩ですが、小さな子どもでも「ぞうきん」のことは分かります。ぞうきんは掃除する道具です。詩のように、こまった時、つまり、部屋が汚れた時に、使われ、キレイに掃除が済めば、部屋の端に追いやられてしまうのがぞうきんの運命、生き方と言ってもいいと思います。

でも驚くのはここからです。河野さんは、その「ぞうきん」になりたいのだというのです。私たちは本当にそう思いたいでしょうか。用があるときだけ、呼び出されて、済んだらもういいと言われる。あるいは、用済みだと言って捨てられるかもしれない。ぞうきんの運命というのは、この世の汚い姿をそのまま表していると私は思います。そういうところからなるべく離れたいと願うし、教会に来たきっかけも、世の汚れの中で疲れを覚えたからこそ、教会に来て、神さまを信じるようになったのだという人も多いのではないでしょうか。河野さんの言う「ぞうきんになりたい」というのは、一度離れた汚い世界に戻って行くみたいで何かいやな思いがするのです。

しかし、その一方で、神さまが私たちに望んでおられる生き方は、ぞうきんのように生きる生き方なのではないかと改めて気付かされます。「ぞうきんになりたい」という言葉にはためらいを覚えても、「朝も夜もよろこんで仕える」という言葉には、そのとおりだ。キリスト者の生き方は仕える生き方なのだと共感する人も多いのではないでしょうか。

この詩を読んでいて、ある福音書の場面を思い出しました。「洗足」と呼ばれる場面です。主イエスが人々に捕らえられ、十字架につけられる前の夜、弟子たちと一緒に食事をなさいました。その最初に、主ご自身がなさった行為が、弟子たちの足を洗う行為だったのです。「足を洗う」という行為は、当時、奴隷がする仕事でしたら、自分の先生であるイエスさまが、自分たちの足を洗ってくださったことに驚いたことでしょう。主イエスが僕、奴隷となって足を洗うというのは、愛の行為でした。しかし、弟子たちはそのことがこの時は分かりませんでした。しかし、やがて知ることになるのです。キリストの十字架の意味を。罪の赦しを。愛するということ、愛し合うということがどういうことなのかを…。

主イエスがここで汚れを取ってくださると言う時の、「汚れ」は、砂ほこりもそうですが、何よりも「罪」の汚れです。まず、主イエスが、私たちの身代わりになって、十字架の上で、御自分の血潮をもって罪を洗い流してくださったのです。「洗足」はそのまえぶれでもありました。主が自ら僕となり、弟子たちの足を洗い、愛を示してくださいました。私たちと永遠の関わりに生きるために、身を低くして、最後には十字架についてくださったのです。

十字架の主が、復活の主が、私たちに新しい掟、生き方を教えています。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(ヨハネ13:34~35)

主は新しい掟として、「互いに愛し合いなさい」と教えられました。互いに愛し合うことは、互いに仕え合うということです。しかも喜びをもって!主が足を洗ってくださったように、互いの足を洗い合うのです。互いに僕となるのです。河野さんの言葉で言えば、まさに「ぞうきん」となって、汚れを洗うのです。

愛に生きるとき、相手の理不尽さに腹を立てることもあるでしょう。逆に、自分の愛の貧しさを覚えることもあるでしょう。お前は用済みだと言われてボロボロに汚くなることもあるかもしれません。でも、主イエスの愛は違います。私たちがどれだけよごれても、ボロボロになった惨めなぞうきんのように思えたとしても、もう一度、愛に生きるために、そこで手を差し伸べてくださるのです。

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