毎日を新しく

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聖書の言葉

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

新約聖書 ルカによる福音書 23章42~43節

八尋孝一によるメッセージ

一昨年の2011年1月、私の父が心不全のため天に召されました。今から14年前、私は現在勤めておりますキリスト教主義学校の教師として赴任するため、生まれ育った九州・福岡を離れて兵庫に来ました。福岡に残してきた父のことは気にかけてはいましたが、いつかこのような日が来ると覚悟はしていました。

2011年の1月のある日、入院中の父が心臓発作を起こして危険な状態という知らせを付き添っていた弟の家族から受け、わたしたち家族も急ぎ福岡の病院にかけつけました。そのとき父は、こちらかの呼びかけにかすかに反応するものの、既に言葉は交わせなくなっていました。父の病状が少し安定したのを見計らっていったん兵庫に戻って一週間後、 再び父の容態が危険な状態だという病院からの連絡を受け、私は新幹線に飛び乗りました。何とか福岡に着くまで持ちこたえてくれと祈る思いでした。しかし、父に付き添っている福岡の弟から送られてくるメールは厳しいものでした・・・「医者はもう今晩一晩持たないといってる」。

もしもう一度父に会えたら伝えようと思っていた言葉が三つありました。それは「ありがとう」という感謝の言葉、「ごめんな」という謝罪の言葉、「また会おう」という希望の言葉です。この言葉を伝えることができるか、刻一刻と微妙な状況になってきました。そして、新幹線が小倉に近づいた夕方、遂に「心肺停止、蘇生処置中」というメールが来ました。もう無理か。博多駅に着いた私はタクシーを飛ばし、ドーム球場横の病院の集中治療室まで一気に階段を駆け上がりました。病室の入り口に親族が集まっています。弟が口を開きました。「今から15分前、脈が戻って心臓が動いている」・・・間に合いました!

病室に入ると、父の心臓は全力で最後の鼓動を打っていました。人工呼吸器で苦しそうな息をする父の手を握り、私はあの言葉を語りかけました。「ありがとう」「ごめんな」「また会おう」。そして祈りました。「神さま、これまで父の人生を導いてくださってありがとうございます。もう父はあなたを呼ぶことができないかもしれませんが、あなたの方で父を見つけ出してください。そして父の魂をあなたのもとへ連れて行ってください。」・・・病室の者が「アーメン」と唱えた5分後、父は安らかに息を引き取りました。その間、わずか10分ほどだったでしょうか、まるで私の到着を待っていたかのような本当に不思議な最後でした。

父は私の家族と共に何度か教会の礼拝に出席し、牧師の訪問も受けていましたので、生前に相談していたとおり、葬儀はキリスト教式でおこないました。今日お読みした聖書の箇所は、父の葬儀の中で、司式をしてくださった牧師が語ってくださった聖書の箇所です。この中で、主イエスとともに十字架にかけられた罪人が、いままさに死なんとするとき、「イエスよ、私を思い出してください」というのです。それに対して主イエスは何と言われたでしょうか。「そんな虫のいいこと言うな、お前にはもうやり直すチャンスはないのだから、いまさらそんなことを言ってももう遅い」、そういわれたのではない。「あなたは今日、わたしといっしょに楽園にいる」といわれたのです。

この聖書の箇所から、牧師は葬儀の中で、こんなメッセージを語ってくださいました。「人はどんな厳しい状況からでも救われる、もうだめだとしか思えない状況からでも道は開かれる」・・・私はこのメッセージに深い慰めを覚えると共に、父と過ごしたあの病室の最後の10分間も、そのために神様が供えてくださった時間だった、そう感じました。父の死を経験して、私が思うのは、人は「いつでも、どこからでも」新しく始めることができるということです。古代の教会に、シルヴァノスという偉い先生がいました。あるとき、ある方がシルヴァノス先生にこんな質問をしたそうです。「人間は、毎日新しく始めることができるでしょうか。」シルヴァノス先生はこう答えたそうです。「そのひとが働く人であるならば、それどころか一時間ごとに新しく始めることができます」

4月はこどもたちや新社会人にとって、新しいスタートの月です。新鮮な思いでスタートした4月でしたが、そろそろ「こんなはずではなかった」と感じ始めている方もおられるかもしれません。

ラジオをお聴きになられている方の中には、今日も一日の始まりを重い気持ちで心ふさがれて迎えられた方、病の床で迎えられたかたもいらっしゃるかもしれません。でも、今日もまた、まっさらな一日が神様から届きます。その一日を受け取った私たちが、「わたしを思い出して下さい」と、そこで主イエスの名を呼ぶとき、もうだめだとしか思えないその場所からであっても、神様はそこから新しい救いの道を開くことがおできになります。「今日」という日は、毎朝届く神様からのまっさらなら贈り物です。神様からこの贈り物が届く限り、私たちは毎日を新しく生きなおすことができる。いつでもどこからでも、毎日を新しく!

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