種を蒔く人のたとえ

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聖書の言葉

イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなった。

新約聖書 マルコによる福音書 4章2~8節

吉田謙によるメッセージ

今日はイエス様が語られた「種を蒔く人のたとえ話」を学びたいと思います。最初の三つのケース、道端や、石だらけの地、そして茨の間、これは、どれをとってみても私たちの姿です。これを読んで身につまされるというのは正しい判断なのだと思います。けれども、そこで私たちがしっかりと聞き取らなければならないことは、そのような道端であったり、石だらけの土地であったり、茨に塞がれているような私たちの心に、神様が常に御言葉の種を蒔き続けて下さる、ということです。たとえ私たちの心が、蒔いても蒔いてもすぐに鳥についばまれてしまう道端のような頑なな心であっても、神様は御言葉の種を私たちの心に蒔き続けて下さいます。また表面的には御言葉を受け入れ、信仰の芽を出したとしても、まだ私たちの心の中には堅い石がゴロゴロしていて、御言葉が深く根を下ろすことが出来ません。そのために少しでも嫌なことや辛いことが起こると、簡単に信仰を諦めてしまうのです。そんな弱く、躓きやすい私たちであっても、神様は、諦めずに御言葉の種を蒔き続けて下さいます。また私たちが、茨に遮られるようにして、この世の様々な思い煩いに捕えられ、あるいは様々な誘惑に目を奪われて、神様を忘れ、御言葉から目を背けてしまうような者であっても、神様は諦めずに、その私たちに御言葉の種を蒔き続けて下さるのです。

このたとえ話で神様は、「あなたは、この中のどの土地にあてはまるか」と第三者のように冷たい目で私たちを眺めておられるのではありません。神様ご自身が、汗を流し、一生懸命に御言葉の種を蒔き続けておられるのです。その神様の熱心な、情熱あふれる種まきの結果、私たちは神様が他でもない私に語りかけていて下さることに気づくようになり、そこで信仰に目覚めることになります。けれども、残念ながらその信仰の芽は、しっかりと根づくことなく枯れてしまうことも多い。茨に遮られて伸び悩むことも多いのです。けれども、神様は繰り返し、繰り返し、諦めることなく御言葉の種を蒔き続けて下さいます。それによって私たちの心は、次第に耕されていく。次第に石が取り除かれていく。次第に茨が抜き取られていくのです。そして、気づいた時には、私たちの心に御言葉がしっかりと根付き、豊かな実りが与えられるようになるのです。

「わたしは傷をもっている。でもその傷のところから、あなたの優しさがしみてくる。」これは、あの有名な星野富弘さんの詩です。星野富弘さんは、かつて中学校の体育の先生でした。学校で、生徒たちの前で器械体操の模範を示していた時に、事故で首を折ってしまい、それ以来、首から下が動かなくなってしまったのです。それまでは体育の先生として、普通の人よりも何倍も身体を動かしていた人が、怪我をしてからは、もう寝たきりになって、ご飯さえも一人では食べられないような身体になってしまいました。その星野さんが筆を口にくわえて書いたのが、この詩です。また星野さんの本にはこういう文章がありました。「夜があるから朝がまぶしいように、失った時、初めてその価値に気づくことがあります。」

星野さんにとって身体が動かなくなったことは、とても辛いことでした。けれども、彼は身体が動かなくなることで、それまで見過ごしていたことを沢山発見したのです。木や草花の美しさ、人の優しさ、そして、ずっと前から星野さんの側にいたイエス様を発見したのです。身体が元気で自信満々の時にも、星野さんは何度か友人から聖書の話を聞き、またその友人から聖書をもらっていたそうです。けれども、その時の星野さんは、そのクリスチャンの友人のことを「あの人はイエス・キリストの話さえしなければ、とってもいい人なんだがなあ」と思っていたそうです。友人の語るイエス様の話が、とっても迷惑に思えた、と言います。この時の星野さんの心は、まだ耕されていなかったのです。けれども、先程の詩のように、星野さんが「身体が動かない」という大きな傷をもった時に、それまで自信満々で頑丈だった星野さんの心にも、大きな傷が出来ました。そして、パックリ開いた傷口から、今まで見向きもしなかった聖書の言葉が、本当に染み入るように入って来たのです。その御言葉の種は、みるみるうちに大きく成長し、神様の愛を沢山実らせました。この星野さんの心にぽっかりと空いた大きな傷は、今は、もう痛々しい傷ではなくて、いつの間にか、神様の愛が溢れ出る「恵みのポケット」に変わっていったのです。星野さんは、この恵みのポケットに、木や草花、母親、友達など、身のまわりの色んなものを入れてみました。すると、それは今までとは全く違った姿に見えてきたのです。その驚きを星野さんは詩に書いたり、絵に描いたりしています。そしてその詩や絵は、今も沢山の人たちを感動させ、勇気づけているのです。

星野さんが、この神様の恵みに気づき、感謝することが出来るようになるまでに、いったいどれほどの御言葉の種が、虚しく蒔かれ、鳥についばまれていったことでしょう。同じように私たちが、この神様の恵みに気づき、感謝することが出来るようになるまでに、育たずに枯れてしまう種がどれほどあることでしょう。茨に塞がれて消えて無くなってしまう種がどれほどあることでしょう。神様はそのような犠牲を払ってまでも、あなたを導いて下さるのです。その神様の情熱と犠牲の頂点こそが、あの神の独り子イエス・キリストの十字架でありました。本当に感謝なことですね。

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