たとえ小さな者でも

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聖書の言葉

これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

新約聖書 マタイによる福音書 18章14節

藤井真によるメッセージ

私が好きな絵本に、安野光雅(あんの・みつまさ)という作家が描かれた『おおきなもののすきなおうさま』(講談社)という本があります。初版は1976年に出版されました。今年でもう20回近くも版を重ねるほど、多くの人たち親しまれている絵本です。

物語は、タイトルどおり、とにかく大きなものが大好きな王様が、自分のわがままを貫いて、家来たちに大きなものを次から次へと持って来させるというお話です。たとえば、王様の一日は、このように始まります。屋根より高いベッドで目覚め、プールのような洗面器で顔を洗い、庭のような広いタオルで顔を拭くことから一日が始まっていくのです。

絵本ですから、実際に絵本の中に描かれている絵を、ラジオやインターネットでお聞きの皆様にお見せすることができないのがとても残念ですけれども、頭の中で思い浮かべてくださったらよいと思うのです。王様自体は、アニメに出て来るようなロボットみたいに特別大きなわけではありません。私たちと同じ背丈の人間です。その小さな人間が、のこぎりよりも大きなフォークや、両手で抱えることができないほどのスプーンを使って、小さなリンゴを食べたり、トラックより大きなチョコレートの端っこをちょこっと舐めて満足する王様の様子は、見ていてとても面白く、また滑稽でもあります。

あるとき、王様はいつものように大変なことを思いつきます。庭を掘って、大きな池をつくり、掘った土で、大きな植木鉢を造れという命令を出すのです。そして、お城の高さほどある大きな植木鉢に、王様は赤いチューリップの球根を一つ植えるのです。きっと見たこともないような大きな赤いチューリップが咲くことを期待していたのでしょう。

しかしどうでしょう。春になって、大きな植木鉢を上から覗いてみますと、そこに咲いていたのは、かわいいチューリップの花が一つだけだったというのです。びっくりするような大きなチューリップが咲いていたわけでもありません。運動場のように大きい植木鉢に辺り一面の真っ赤なチューリップが咲いていたわけでもないのです。「おおきなおおきな うえきばちに、かわいい かわいい チューリップが、ひとつ さきました」。そのような言葉を残して、この絵本は閉じられていくのです。読み終えた後、不思議な余韻が心に残り続ける絵本です。

著者の安野光雅さんは、「あとがき」の中で、次のようなことを記しておられました。

エジプトの王は、ピラミッドという巨大な墓をつくらせたが、大きな花を咲かせることだけはできなかった。生命を人間がつくることはできない。花一つ、虫一つが、かけがえのないものであることを思わねばならぬ。

この世界の中で、どれだけ大きな力を持っていたとしても、あるいは何でもつくらせることができる王様でも、あるいは命をその力をもって簡単に奪うことができたとしても、小さな命をつくること、生み出すことはできないのです。小さく赤いチューリップは、まるで大きなものの好きな王様よりも、私には大きく素晴らしく見えて仕方ありませんでした。

聖書にもたくさんの王様が登場してきます。例えば、ソロモンというイスラエルの国で、栄華を極めた王様が出てきますが、彼は歴史上、最も富があった人物ではなかったと言われます。しかし、主イエスは弟子たちに野に咲く花を、しかも、明日は炉に投げ込まれてしまうかもしれない花を示しながら、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6:29)とおっしゃいました。

私たちが思い悩む原因は、自分を大きく見せることであったり、美しく見せることであったりするかもしれません。しかし、主イエスが私たち人間を見られるとき、私たちが何を持っているのか。どんな功績を積み重ねてきたのか。どれだけ容姿が美しいのかはまったく関係ありません。主イエスが私たちの命そのものを見ておられます。そして、それを美しいとおっしゃってくださいます。

なぜなら、命を、野の花に、動物たちに、そして私たちに人間たちにお与えになったのは、神さまだからです。神さまは、命の重み、尊さ、美しさを、私たちが知っている以上に、よく知っていてくださいます。たとえ自分が小さな存在であっても、たとえ誰からも目を留めてもらえず、身を小さくしてでしか生きていくことができない者であっても、たとえ自分を飾るものが何一つなくても、たとえ犯した罪を悔いて自分を責め続けていても、主イエスは、「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し(ている)」(イザヤ43:4)。そう言ってくださるのです。

また、聖書には、主イエス・キリストこそ「まことの王」であることを語っています。しかし、それは決して自分を大きく見せようとする王様ではありません。人の持っている何かを奪って、自分を大きくする王様でもありません。

「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と聖書の言葉にありますように、キリストは小さくなって、私たちを訪ねてくださいました。小さな者に心を砕く王様としてこの世界に来てくださったのです。小さくなって、誰も訪ねてくれないような狭い場所に、寂しい場所に、主イエスは訪ねてくださったのです。最後には十字架で、ご自身の命さえも差し出してくださったのです。それは私たちが滅んではいけない存在だからです。あなたが滅ぼされてしまうならば、わたしがあなたの身代わりになる。なぜなら、あなたに生きてほしいから!これが神さまのあなたに対する思いなのです。

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